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かつてHondaの4ストローク・マシンRTL360を駆り、“3年連続トライアル世界チャンピオン”(1982年〜1984年)に君臨した、ベルギーのエディ・ルジャーン選手。彼は、「困難に挑む時、一番大切なものは、バランスである」と語っていた。それは、20年以上前のことだが、今でもトライアルの真理を表す言葉と言えるだろう。
当時藤波貴久選手は3歳、バイクに乗り始めた頃のことだった。
時代はちょうど2ストローク全盛期へと向かうところで、1985年にはHondaの2ストローク・マシンTLM200Rが発売された。その後、Hondaはスペインの名門Montesa(モンテッサ)とともに、Montesa
Hondaとして新型マシンを開発。1996年にはスペインのマーク・コロメ選手がチャンピオンとなり、さらに2000年から2003年まではイギリスのドギー・ランプキン選手がMontesa
Hondaで4年連続チャンピオンに輝いた。そして昨年、ついに藤波選手がHondaの2ストローク・エンジンを搭載したMontesa COTA315Rで、「Hondaで日本人初チャンピオンを獲得したい」長年の夢を実現させたのだ。それはまた、「2ストローク最後のチャンピオンになりたい」という夢でもあった。
Montesa HondaとHondaは、「環境問題からトライアルも4ストローク化していく」というFIMの方針に賛同して、新型4ストローク・マシンを共同開発。当初の予定通りに、2005年からMontesa
COTA 4RT/Honda RTL250Fを市場に投入するとともに、世界参戦を開始した。目標は、もちろんチャンピオン。だが、2005年開幕戦からの4ストローク化を実現したのはMontesa
HondaとHondaだけで、すでに熟成された2ストローク勢を相手に戦うことになった。開発途上の4ストロークで1年目から頂点をめざすことは、極めて困難な挑戦と言える。しかし、それこそがHondaらしいチャレンジでもあった。
トライアル用の4ストローク・マシンには長いブランクがあったが、開発は急ピッチで進められた。トライアル発展のために、いち早く4ストローク化を進めることは、5年連続メーカー・タイトルを獲得して世界のトップをひた走るMontesa
Hondaの使命とも言える。それはまた、“4ストロークのHonda”とも呼ばれた伝統の技術を、新たに磨き高めようという挑戦でもあった。
こうして登場した新型4ストローク・マシンは、開幕戦からいきなりランプキン選手が初優勝を遂げるポテンシャルの高さを見せつけた。一方、藤波選手は5位&4位と出遅れてしまい、第2戦終了現在のポイントランキングはまさかの5位となっていた。
第3戦日本GPに向けて帰国した藤波選手の表情は、吹っ切れたように明るかった。日本GP直前、東京の「渋谷アックス」で行われた記者会見では、「日本でテストを重ねて、いいマシンが出来ました。もともといいマシンですが、いいところを出せなかったのが、出せるようになった。日本GPでは100%を出して、自分がレースを引っ張っていく主導権を握りたい」と意欲を見せた。同じ会場で行われたデモンストレーション走行では、2ストロークの時と変わらないパフォーマンスを披露して観客を沸かせる藤波選手だった。
これまで毎年雨に見舞われていたイメージを吹き飛ばすような、気持ちのいい五月晴れに恵まれた、「ウイダー日本グランプリ」。ツインリンクもてぎに新たに用意されたセクションは、さらに観戦しやすくなり、周囲の新緑も心地よい。競技は2日間行われ、1日毎に15セクションを2ラップして争われた。その1日目。1ラップ目の藤波選手は4位と後れを取ったものの、2ラップ目に圧倒的な実力を発揮してライバルたちを逆転、待望の4ストローク初優勝を獲得した。
2日目の藤波選手は、またも1ラップ目に5位と出遅れてしまう。この日は、アダム・ラガ選手(ガスガス)のように1ラップ目にオールクリーンする選手もいて、僅かなミスも許されない大接戦になっていた。それだけに、藤波選手の逆転優勝はおろか、表彰台さえも手が届かないのではないかと思われた。ところが、1ラップ目の中盤から実力を発揮した藤波選手は、記録的な23セクション連続クリーンをマーク。19連続クリーンにとどまったラガ選手と同点に追いついた藤波選手が、クリーン1つの差でラガ選手を逆転して3位表彰台をゲット。2連勝を逃して唇を噛みしめる藤波選手だが、ディフェンディングチャンピオンらしい勝負強さも見せたのだった。
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