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 貴久の戦い方は、この頃から、少しずつ変化が見え始めた。人によっては「フジガスがフジガスではなくなってきた」とも評価する。確かに、アクセルを開けっ放しにして飛んでいくだけの走り方は影を潜めた。そんな走り方をしていては、とても勝利はおぼつかない。ただし、アクセルの開けっぷりのよさは、貴久の真骨頂だ。絶好調の貴久に「フジガス」は健在。アクセルが開いているときの貴久は、やはり調子がよい。
 
 2003年、貴久はさらに自分の体制に変化を与えた。ここまで一心同体で活動してきたお父さんと別れて、一人でスペインに住み、スペイン人の中で活動していくことを決めたのだ。
 
 藤波家にとっても、これは大きな転機だった。家族3人での闘いは、ここで藤波貴久の闘いになった。その貴久の傍らには、婚約者の直子さんがいた。本当は、もっとずっと早く結婚していておかしくなかったのだが、チャンピオン獲得の大きな夢の前に、直子さんとの入籍のことはすっかり忘れられていたのだ。
 
 2003年は、大きなチャンスの年になった。開幕戦で優勝し、今年こそという期待はぐんと高まった。このシーズン、ちょうど折り返しで開催されたのが、日本大会だった。ここでランプキンは両日ともに3位にしかなれなかった。日本人が初めて見る“勝ちのないランプキン”だった。貴久は、土曜日に勝利しながら、日曜日は伏兵ジャービスに勝ちをさらわれた。たったの1点差。しかし1点差でも負けは負けだ。貴久には何度もある負けパターンだった。過去には、表彰式が終わってから、抗議が通って貴久の勝利が奪い去られたこともあった。
 
 この年、貴久は6勝を挙げた。もてぎでポイントリーダーにもなり、後半も勝ち進んだ。チャンピオン争いは、最終戦の最後の最後まで、もつれこんだ。ランプキンは4勝しかしていない。しかし貴久はチャンピオンになれなかった。ランプキンは、勝ち方だけでなく、負け方も上手だった。勝ち方でランプキンと並んだ貴久は、今度は負け方も学ばなければならなかった。
 

22歳の藤波選手。この年から世界選手権だけに照準を絞りトライアルの本場であるスペインに移住する。
 2004年、貴久に異変が起こった。それまで、どうしても不得意の悪循環から抜けられなかったインドアトライアルで、ランプキンを破ってランキング2位となった。インドアはアウトドアとは異なるライディングテクニックを必要とする。アウトドアでの勝利にインドアでの勝利は必ずしも必要でないと思われるも、これで、貴久はまた、ライバルの持っているものをひとつ、手に入れた。ランプキンは、この2年ほど、インドア選手権でランキング2位となって、世界チャンピオンとなっているのだった。
 
 2004年シーズンが始まった。開幕戦アイルランド大会の土曜日は勝利したが、リザルトを見れば、日曜日以降第2戦ポルトガル大会も勝利から遠ざかり、しかも表彰台まで逃している。このパターンは、2003年とよく似ている。不安は、大きかった。
 
 しかし本人は、意外にこの結果を意に介していなかった。もちろん成績はいいにこしたことはないのだが、アイルランドとポルトガルの低迷には、理由があった。アイルランドでの4位は、シリーズを戦う上での大きな教訓になったと、本人が語っている。負けて得るものもある、ということだ。ポルトガルでは、マシンのセッティングに失敗し、加えてトラブルも発生した。しかし最悪のコンディションから翌日には復調し、トラブルをかかえながら2位に滑り込んだ。内容的には、もっと崩れてもおかしくなかった。調子が悪くても、踏ん張れる。それが、収穫だった。
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