INDEX123NEXT>
 2000年、日本で初めて世界選手権が開催された。ほとんどすべての日本人ファンにとって、初めての世界選手権だ。日本人にとって世界選手権は、最初から「世界チャンピオンに王手をかける藤波貴久」だった。ここまで順調にステップアップしているから、世界タイトルももう一歩だと思われる。しかし。
 
 その年も、その翌年も、さらにその翌年も、貴久はチャピオンになれなかった。5年連続、世界ランキング2位。藤波貴久は、本当にチャンピオンになれるのか、いつまでたっても2位のまま終わるのではないか……。そんな声が、どこからともなく聞こえてくる。
 

2000年に行われた世界選手権日本大会。肩や足を負傷しながらも2日間ともに2位。会場には1万人以上の観客が集まった。
 もちろん貴久本人は、毎年確実に進化していた。なにを改善しなければいけないかを把握していたし、そのための方策もとった。明らかな進化はあった。しかし結果が毎年同じなので、進化に説得力がない。その実力を示そうと思えば、チャンピオンになるしかない。
 
 初めて日本で世界選手権が開催された2000年、貴久は、まだまだ表彰台の常連ではなかった。日本で両日ともに2位となり、ランキングでも2位となったので、打倒ランプキンの最右翼と目されていたが、実のところは、その差はまだまだ大きかった。
 
 ランプキンと貴久の間には、本来なら二人のライダーが活躍しているはずだった。黒山健一とダビッド・コボス。この二人は、ともに大きなけがをしてチャンピオン争いから脱落してしまった。その一方で、ランプキンは敵のいない環境ですっかり“負けない戦い方”を覚えてしまっていた。
 
 ランキングも2位、日本GPでも2位ばかり。2002年、貴久は一つの決断を下した。これまで、全日本選手権と世界選手権は、両方とも重要なターゲットだった。しかしこの年から、狙いを世界一本にしぼった。世界を戦うには、戦う土俵をライバルと同じにする必要があった。全日本を戦っている間にライバルたちがしている経験。これが、貴久にはハンディキャップとなっていた。スペインに腰を落ち着けた貴久は、スペイン語もずいぶん流暢になり、スペイン人マインダーのジョセップ・バニャレスとのコミュニケーションも、より強固になった。
 

長い間、世界ランキング2位が続く。チャンピオンの壁はコースの絶壁よりも遙かに高く、過酷だった。
 この年、世界選手権日本大会は最終戦。貴久は、日本大会の土曜日まで、ランプキンと並びチャンピオン候補だった。そして土曜日に日本大会初優勝。結果は、ランプキンが6年連続世界チャンピオンを決めたが、貴久の世界タイトルへの具体的挑戦は、これがスタートになった。
 
 加えてこの年は、貴久には大きな収穫があった。アメリカ大会の優勝だ。このときの貴久は、それほど調子がいいわけではなかった。気持ちを支え、やるべきことをひとつひとつこなした結果、勝利を得た。これが、チャンピオンになるための勝ち方だと、そのとき思った。
 
「勝利の経験のあるライダーに限定すれば、調子のいいときには誰でも勝てる。でも、いつでも調子がいいわけじゃない。問題は、調子の悪いときに、いかに成績を崩さずに、表彰台を獲得するか、そして勝利をつかめるか。タイトルの獲得には、それが課題」
INDEX123NEXT>