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 成績が出るに従って、貴久の支援体制は充実してきたが、最初の1年2年は悲惨な戦いだった。誰よりも練習熱心で、最後まで走り続ける貴久。しかしそれ以上に、サポートでぼろぼろになっているお父さん。しかしお父さんには、その後マシン整備という仕事がある。雨の日、着替えもままならぬままに整備をし、パドックのシャワーもすっかりお湯を使い果たした頃、冷たい水のシャワーを浴びて1日が完結する。水シャワーに泥だらけのウェアを着たまま飛び込み、水に打たれつつ泥のウェアを1枚1枚脱いでいく。そんな毎日だ。移動では、運転手はお父さん一人。土地勘がないから、モンテッサのトラックに置いていかれまいと、必死でついていく。お母さんの博美さんは、居眠りしそうなお父さんに話しかけ、ひっぱたき、時には背中に氷を入れた。そして水シャワーの待つパドックに到着する。
 
 時にというか、しばしばというか、3人は言い争いもした。いつでも満足のいく成績が出るわけではないし、なにせ、生活すべてがめいっぱいなのである。しかし言い争いは長くは続かない。貴久は「自分のやりたいことを、両親が助けてくれる。自分ががまんするしかない」と思うし、親の方は「親父の趣味を息子に始めさせたのだから、続ける義務がある」と思う。それでもまたけんかになる。わかっていても、どうしようもない。世界選手権挑戦1年目を2年も続けるのは不可能だったろうと、今、藤波家は口をそろえて言う。
 
 しかしそんな中、貴久の持って生まれた積極的な性格は、どんどん発揮されていった。世界選手権参戦1年目の小僧が、偉大な世界チャンピオン、ジョルディ・タレスのキャンピングカーにおよばれして家族の夕食をすっぽかしたりする。と思えば、夕食後には、お父さんが誰かのキャンピングカーにもぐりこんで、世間話にふけったりする。この親子は、こういう性格なのだ。このものおじしない性格が、貴久のヨーロッパでの地位を確立したようにも思える。お気の毒なのは母博美さんだ。人なつっこい旦那と息子を持ったおかげで、異国のパドックでひとり、待ちぼうけをくわされることになるのだった。
 

17歳の「フジガス」こと藤波貴久選手と、父・由隆さん。2人の笑顔の裏には、異国の地で闘う家族の途方もない苦労があった。
 「フジガス」なるニックネームも、こんな貴久の性格から生まれたものだ。すでにヨーロッパでの試合経験が豊富な貴久は、相手がスペイン人だろうと、なんら動じない。世界選手権デビュー戦のスペイン大会、貴久は16歳になったばかりのルーキーの分際で、お客さんに拍手を要求したのだ。そしてその結果、タレスも落ちるような断崖絶壁を上がりきって、勢い余って向こう側に落っこちていったりした。この度胸のすわりっぷりと、その開けっぷりのいいライディングスタイルが、デビューいきなりにしてスペインの人の気持ちをがっちりつかんだ。アクセルを開けるアクションを「ガス」という。「フジガス」は、藤波貴久を世界に知らしめるのに、一目瞭然のわかりやすいニックネームだ。
 
 1996年の初挑戦のランキングが7位、2年目に初優勝を経験してランキング4位、3年目は世界選手権と全日本選手権で異なるルールに悩まされ、ランキングを5位に落とした。それでも、10歳のときに立てた目標通り。そして翌年にはマルク・コロメ(96年世界チャンピオン)を破ってのランキング2位獲得。これも予定通りだ。
 
 しかしここから先、世界チャンピオンへの最後の一歩は、遠かった。予定では翌2000年には世界チャンピオンになっているはずだったのだが、世界チャンピオンとは、そうそう簡単に達成できるものではなかった。(後編へ続く)
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