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挑戦2年目にして世界選手権(プッシンクラス)を制す。外国人選手に比べて小さい体ながらも、見事世界の頂点に立った。 |
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最初の年、貴久は世界ランキング3位になった。これがなんともくやしかった。翌年、雪辱を果たす勢いでヨーロッパに出かけ、世界チャンピオンになった。藤波貴久、10歳。
自転車で世界チャンピオンを獲得した貴久は、次なる目標を立てた。オートバイにデビュー、国際A級昇格、全日本チャンピオン、世界選手権挑戦、そして世界チャンピオン……。11歳になったばかりの少年は、父親とともに自ら人生設計をして、そのとおりに自分を運び始めたのだった。
自転車からオートバイに転向。最初は、50ccマシンだった。しかし非力な50ccマシンで、大人にまじって戦い、貴久は国内A級への昇格を果たした。そして国内A級でも連戦連勝。シーズン途中に125ccに乗り換えてもその勢いは変わらず、ついに中部選手権国内A級クラスでは、全戦優勝の金字塔を打ち立てた。※2
※2 トライアルでは、排気量によるクラス分けはない。ただし2004年より、18歳以下の選手は125cc以下のマシンに乗ることを決めた規則ができ、世界選手権に『ユース125』クラスが誕生している。
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のけぞってしまいそうな垂直に切り立つ岩肌を、軽々と飛ぶように駆け上がる。当時13歳の藤波選手はこの年、史上最短で国際A級クラスに昇格する。 |
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子どもの成長は早い。なにも教えなくても、難所に挑戦し、試行錯誤を繰り返しているうちに、あっという間にうまくなる。しかも、このときすでに貴久を始め、少年たちはみな、自転車の世界チャンピオンである。ふつうの人の中ではちょっとうまいというレベルの父、由隆さんや、全日本チャンピオンの黒山一郎さんには、もはや教えるものもない。お父さんたちは、口を出さず、ひたすら奴隷となるべし。これが、掟となった。
かくしてお父さんの仕事は、どんどんとステップアップする息子の安全を確保し、痛んだマシンを修復するのに徹することになった。そしてまた練習場へ向かう。技術は高くても体格がない子どもは、失敗するとマシンとともに転落する。お父さんは、それを必死で支える。練習場でお父さんは、マシンもろとも崖を滑り落ち、満身創痍。ライダーの方は、マシンを投げ捨てけろっとしている。世界チャンピオン獲得のため、息子の奴隷となるお父さんの人生は、年を追うごとに悲惨さを増していった。
いつの間にか、貴久は日本のトップライダーに成長した。1995年、国際A級2年目。貴久は15歳で史上最年少の全日本チャンピオンとなる。全日本チャンピオン獲得は、10歳のときに計画した、その予定通りだった。
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トライアル5年目、念願の全日本タイトル獲得。この時すでに、弱冠15歳の彼の目線の先には世界選手権に参戦する自分の姿が見えていた。 |
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そのシーズンオフ、貴久はマシンをHondaに乗り換える決意をした。これは、長らく指導を仰いだ黒山一郎さんの元を離れることを意味する。黒山さんの経験から得たヨーロッパ転戦の豊富なノウハウも、チームを離れては、そうそう伝授されなくなった。
世界選手権参戦には、さまざまな準備が必要だ。メーカーから貸与される試合用マシンのほかは、全部藤波家が調達しなければいけない。お父さんが使うサポート用マシン、トランスポーター、寝泊まりをするキャンピングカー、工具類に、はてはふとんや食器や箸までも、重要な必要装備だ。帰るべき場所をヨーロッパに持たない藤波チームは、家財道具と、1年分のパーツをすべて詰め込んだまま、世界選手権を転戦した。 |