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もはや、タイトルは事実上獲得したも同然だった。口には出さなかったが、藤波自身も、土曜日の時点で、翌日のチャンピオン獲得を実感していた。あとは、最後の試合をどのように締めくくるかが、勝負だ。 日曜日、しかし藤波は、三たび第3セクションで5点を取ってしまった。しかもこの日は、藤波にとってついていないことに、前日の難セクションぶりを鑑みて、セクションが全体にやさしくなっていた。セクションを進むに従って、藤波は第3セクションでの5点が、取り返しのつかないものであることを思い知らされていく。 それでも、1ラップ目が終わったとき、藤波はランプキンに次いで2位の位置をキープした。ランプキンには3点差。もちろん、勝利のチャンス充分の点差だ。チャンピオンシップでやるべきことは、すべてやり尽くしている。残る最後の仕事は、有終の美を飾ることだ。3点差を追って、藤波の2004年、最後のラップが始まった。 しかしそれは、ランプキンにとっては、チャンピオンとしての最後のラップでもあった。ランプキンは、ラガとの間に繰り広げられている、ランキング2位争いの渦中にいる。もはやランプキンの勝負は藤波とのチャンピオン争いではなく、よりよいポジションでこのシーズンを終わることだった。そこに、チャンピオンとしての最後の意地があり、ランプキンのすべてが、そこに集中していた。
「セクションを見たとき、今日はオールクリーンをするつもりじゃないと勝てないと思った。ぼくにはそれができず、ドギーはほとんどやりとげてきた。いつもと同じように戦えたかと言われれば、いつもとちがうような気も少しあって、これがチャンピオン決定のプレッシャーだったかもしれないけど、でも、ドギーの今日の戦い方を見れば、ぼくはまだまだ青い」 チャンピオンとなって、藤波は最後の戦いを振り返った。最後のセクションを走り終えたときの藤波の深い深呼吸は、そんなこの日の戦いを象徴しているようでもあった。 ゴールには、由隆さんがHondaの旗と日の丸を掲げて待っていた。ふたつの旗には、これまで藤波をずっと支え、見守り、叱咤激励してきたHRCはじめ、Hondaの面々の寄せ書きが記されていた。 藤波は言う。「ぼくをランキング2位にしてくれたのは、お父さん。そこから先は、みんなの力があってこそ」。藤波は、そのみんなのもとへ、チャンピオンとなって、戻ってきた。 由隆さんは、藤波のサポートから離れ、去年はもてぎの1戦と、最終戦のみに顔を出した。もてぎではサポートをし、最終戦の土曜日は全セクションを観戦し、日曜日は最後のサポートを担当もした。しかし今年は、もてぎでのサポートからも退いた。すでに藤波チームは、藤波とジョセップの間に、強力な体制が作られていた。 息子が長年の夢だった世界チャンピオンになるその当日、由隆さん、母博美さんは、ついにセクションをひとつも見ることがなかった。彼らは、ゴール後におこなわれるパーティの準備に忙しかったのだ。大奮発した上等のハモン(豚の足まるごとの薫製)を1枚1枚ていねいにカットし、赤飯を炊き、先に帰って順にマシン、整備台、工具を片付け、テーブルを並べた。
今年もてぎで、藤波がパーフェクト優勝を果たしたとき、由隆さんは男泣きに泣いた。でも今回、その目に涙は見られなかった。「もてぎのは雨。今日はいい天気だから」と由隆さんはうそぶいた。でもきっと、誰の目もない試合中のパドックで、ハモンをスライスしながら、たっぷり泣き尽くしていたんじゃないだろうか。ごちそうになったハモンは、たいへんにおいしくて、そしてちょっぴり塩っ辛かった。パーティには、フジガス・チャンピオンのTシャツを着て、やはりおいしそうにハモンをほおばるランプキンの姿もあった。 この日、スイスでは、ひとり、またひとりと帰路につくパドックにあって、藤波貴久のモーターホームの周囲では、いつまでもにぎわいが絶えなかった。8年前のあの頃と同じように、寝につくのは藤波家が最後のようだ。
世界トライアルは、藤波貴久のタイトル獲得で、新しいニッポン人を王者に迎えた。 |
■2004年ポイントスタンディング![]()
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