今からちょうど40年前の1962年。モータースポーツはおろか、乗用車そのものが日本国内では一般的に普及していなかった時代のこと。当時スーパーカブをヒットさせたばかりの小さな二輪車メーカーだったHondaが、鈴鹿に国際格式の本格的なサーキットをつくり上げた。自動車メーカーを含め、当時日本の誰もが考えなかった発想。鈴鹿サーキットは、Hondaの先進性と情熱を色濃く物語る場所。今回は、鈴鹿サーキットの長い歩みの中から、
8耐とF1スタート期のあまり知られていないエピソードをご紹介したい
オイルショック後にはじまった8耐
「それまで10時間、12時間といった耐久レースが全日本ロードレースの一貫として毎年開催されていました。1974年のオイルショックで休止となりましたが、鈴鹿のスタッフは、伝統のある耐久レースをなんとか復活させたいとタイミングをねらっていました」
「約3年を経て社会情勢が回復してきたため、耐久レースの復活をめざし活動をはじめました。その際、当時あまり社会的に芳しくなかったオートバイのイメージを向上させるために、グッドライダーを鈴鹿に呼んでオートバイレースを核としたお祭りをやろうと。お祭りなら夏がよく、一般の方も参加いただくなら花火だろうと。当初から8耐は、花火を交えた真夏のお祭り的構想でスタートさせたのです」
「耐久レースといえば本来なら24時間です。以前には24時間レースを行ったこともありました。でも、24時間レースをやると、3日ぐらい寝れないチームも出てきます。また、鈴鹿の周囲には住宅も多く、騒音の問題もあります。そこで、24時間を短時間で再現したいと。それには、明るいうちにスタートして最後はライトを点灯させてゴールするのがいいわけです。そういう経緯で、午前11時30分にスタートして午後7時30分にゴールする“8耐”がはじまったわけです」
「しかし、当初は参加チームからはかなり非難がありましたね。たった30分の夜間走行のために、マシンにライトをつけるのは経済的にも大変だというわけです。しかし、鈴鹿の夕日はとても美しく、それを背景に走り、暗くなってゴールするという演出はどうしても守りたかった。そこで、レギュレーションを軽くして、懐中電灯を取り付けるのでもいいと。たしかそうした記憶があります。当初世界選手権にするつもりもありませんでしたから、かなりフランクでした。それと、ゴールの時間が迫り、花火の時間が近づくと観客が増えていましたね。サーキットをすべて解放していましたから、近くの方が花火を見に集まるわけです。お祭りだからそれもいいと。花火を見ながら、オートバイの走りやゴールシーンをチラっとでも見ていただければいいと考えていました。人が多い方がゴールも盛り上がりますし(笑)」
「それと面白かったのが、当初鈴鹿に集まったお客様をしばらず、自分たちのルールで楽しんでもらった時代ですね。運営スタッフにお客さんを規制しちゃいかん!と指示し、施設もすべて解放したものですから、いろんな所で若者が寝ているんですよ。ホテルも例外ではないので、有名選手の部屋の前の廊下で寝ている若者がいたりして、さすがにそれはのちのち規制しましたが(笑)。小説家の五木寛之さんがとてもユニークな雰囲気だと、雑誌に書いて話題になったりしました。8耐のそんな自由な雰囲気がHondaらしいところでしょうか」
トラブル続出のF1開催初年度
「8耐で15万人ものお客様に楽しんで頂いていましたから、F1もいける、開催したいという思いが根強くありました。F1側も日本開催を視野に入れていたようで、やらせて欲しいと手を挙げたわけです」
「FIAやFOCAとの交渉、コースの安全面の確保なども問題なく進みました。しかし、ホテルを500室確保して欲しいという要求に応え、周囲のホテルの協力を得て確保したのは良かったんですが、開催間近になり、彼らの言うホテルとはツインルームだったことを知り唖然としました。日本のホテルはシングルが多く、ツインは少ない。そこで、急遽サーキットホテル内に1棟建設し、何とか初年度はしのぎました。ですから初年度は、F1ドライバーのなかにもシングルの部屋で我慢してくれた人もいたわけです(笑)」
「また、無線の周波数帯が確保できず、このままだと妨害電波になり新幹線が止まってしまうという話になって、大慌てで郵政省に帯域を確保してもらったり、ヘリ輸送による医療体制が確保できておらず前日にフリー走行を中止せよ!と言われたり…。何とかヘリポートのある病院を確保し、スタッフを揃え、フリー走行開始30分前にOKを取り付けました」
いきなりのF1ベストオーガナイザー賞受賞
「FIAのバレストル会長が、1コーナーまで遠いのでスターティンググリッドをあと200m前に移動せよと言ったときは驚きました。ちゃんと規定内の位置であるにも関わらず、です。大急ぎで日本鋪道株式会社にお願いして突貫工事です。水曜に言われ、土曜の夜10時がリミットだったのですが、木曜の夜に仕上げたのです!すごかった。あれは気持ちよかったですね」
「そんなこんなで、慣れないために問題は噴出しましたが、すべて緊急対応しました。タイヤバリアを4000本分増やせというオファーに即時に対応したときは驚かれましたよ。実は、そんなこともあろうと、タイヤを5000本用意していたのですが(笑)。綿密に作ったオフィシャルのマニュアルは、『エクセレント!!』と賞賛されました。彼らはそれを大事に持って帰りました。ぜひ参考にしたいと」
「マニュアルづくりをそれほど徹底したのは、対応が遅れるとすぐに罰金になるからです。そうすると、オフシャルも萎縮して力を発揮できないわけです。だから、彼らに文句をいいました。あなたたちは、裁判官なのかと。しかし、彼らいわく、F1をオリンピックやワールドカップと同じレベルのイベントにしたいので最高のオーガナイズを期待しているのだと言ってました。そして、われわれ鈴鹿サーキットは、困難を乗り越えた甲斐あって、その年のF1ベストオーガナイザー賞という最高の栄誉を獲得したのです。感無量でしたね。もちろん、翌年からはスムーズにいきましたよ。苦労話は、開催初年度だけの貴重な思い出です」
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