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アルバイトで、遊園地なんかで良くやっている子供ショー(当時だとゴレンジャーショーとか仮面ライダーショーとかウルトラマンショーとか)の中身をやっていたボクは、日本中の遊園地やイベント会場みたいな所を訪れる機会に恵まれていた。関東だと西武園や船橋ヘルスセンターや大磯ロングビーチや、その他にも様々なデパートの屋上など、毎週末いろんな所へ出かけては、けっこうギャラの良かった子供ショーに汗を流していた。

 確か1975年、19歳だったと思う。バイトの親玉が「今度の週末は鈴鹿だ」と言った。ス・ズ・カ…という名は、もちろんサーキットの名としては知っていたが、どうせ鈴鹿の町のスーパーかなんかの屋上が会場だろうと思っていたボクは、その子供ショーが鈴鹿サーキットの中で開催されることを知って、ちょっと脈拍が速くなった。すでにレースに充分な興味を持ってはいたものの、実際にサーキットに行けるなんて完全に未知との遭遇だったボクは、「す、す、鈴鹿に、行ける!」と、他のバイト仲間には内緒の喜びでどきどきワクワクしながらその週末を待ったのだった。

 鈴鹿に入ったのは確か金曜だったと思う。ショーは土曜と日曜。サーキットに着いたボクはメンバーから離れて、さっそくコースを拝みに行った。遊園地を抜けるとグランドスタンドの裏側にたどりつく。そして恐る恐る観客席に足を踏み出すと、そこには想像を遙かに超える巨大な「サーキット」というものが、目の前いっぱいに広がった。ちょっと足が震えていたかもしれない。視線も定まらずうつろだったに違いない。それが、ボクの鈴鹿サーキット初体験だった。

サンパウロのレースに日本のメーカーとして初めて参加したとか、59年にマン島TT初挑戦を果たしたとか、61年に高橋の国さんが日本人として初めてグランプリで勝ったとか、Hondaのレースにまつわる初めて物語や偉業の数々は、それこそ山ほどあったけれど、ボクは「鈴鹿サーキットを作った」という事業こそ、とてつもなく比類ないことなのではないかと思っていた。手本も何もないところからレーシングマシンを作るのも大変だったろう。チームをつくり運営の体制を整えマン島におもむく課程にも想像を絶する苦労があったことだろう。でも、どう考えても、鈴鹿サーキットという偉大なモニュメントを作った事こそ、Hondaにとって最大のレース活動だったのではないかと、ボクは思っていた。

 変な例えかもしれないけれど、グローブやバットを作っただけでは野球は出来ない。野球場を作らなければ本物のベースボールは実現出来ない。世界一の用具を作るためには、世界一のゲームを開催出来る「場」が必要なんだ…と考えるあたりが、まさにHondaの真骨頂と言える部分なのかもしれない。マシン作りだけでも精一杯だったろうに、ここで本格的サーキットの創設まで実行してしまう当時のHondaの気合と力の入れ方は、半端なものではない。でも、普段から「バイクやクルマはレースをやらなければ良くはならない!」と檄を飛ばしていたという宗一郎社長にとって、どんな借金をしようがどんな困難にブチ当たろうが、国内にサーキットを建設することは、世界一を目指す自らの「レース活動」に欠くべからざるモノであった。
 もちろん、ワークスマシンと同じようにHondaそのものが鈴鹿サーキットを作ったのではなく、(株)モータースポーツランドという別会社を事業の母胎としたわけだが、発端は宗一郎社長の一声であったのは間違いないのだから、これはまさにHondaのレース活動と考えるのが当然だ。
「マン島に出るぞ!」「グランプリで勝つんだ!」「自分たちでサーキットを作るぞ!」
 なんとまあ、わがままで傍若無人で、そして夢とチャレンジスピリットにあふれたことか。しかし、本田宗一郎という人物の怖いモノ知らずの発想と強い想いこそが、日本のモータースポーツを新しい時代へと力強く導いたことに、間違いはない。

 Hondaが、鈴鹿サーキットの建設に向けて具体的な動きを開始したのは、1960年春のことだった。この60年春とは、グランプリへの挑戦2年目を迎える直前であり、自分たちのレース活動が世界に通用するかどうかも未知数という時期だった。60年シーズンは出場クラスを125ccに加えて250ccにも拡大し、まさに猫の手も借りたい程の忙しさだったろうに、こんなタイミングで「サーキットを作るぞ〜!」と大号令を発してしまう本田宗一郎という人物の破天荒さは、もはや常人の想像を超えたモノであったに違いない。端から見れば、なんとも痛快なストーリーだが、内部で実際の作業に携わる人たちの何人かは胃潰瘍を患ったに違いない。

 実際のサーキット建設予定地を決定したのは、1960年8月19日だった。候補地としては当初、浜松、水戸、浅間、鈴鹿、亀山、土山などが挙げられていたが、最終的に鈴鹿、亀山、土山の三カ所から鈴鹿が選ばれた。前年の59年に2輪の組立工場を鈴鹿に建設していたという事情もあったが、こんな逸話も残されている。

 他のある候補地の自治体は、誘致にあたってとびきりの酒宴をはじめとする豪勢なもてなしで本田社長以下を迎えたという。ところが鈴鹿市は、会議室で渋茶一杯を出しただけで、詳細な航空測量写真を広げ、すぐに具体的な実務交渉に入れる資料を揃えていた。宗一郎社長がそこに何を感じたかは、推して知るべしである。鈴鹿市は、全国で二番目に工場誘致条例を施行した自治体だった。杉本龍造市長以下、実務最優先で虚飾を嫌う気風も、宗一郎社長の琴線に触れたことは充分に考えられる。こうして鈴鹿は、後に世界に名を轟かせる「SUZUKA」への道を歩み始めた。

、屋外の遊園地ではなく、テクニカルセンターという舞台がある会議場のようなホールで開催された。子供ショーをやるにはちょっと狭い会場だったが、客席の机をひっくり返すと汎用エンジンが出てきてその構造を学べるようになっている事を知り、やっぱりここはHondaが作った施設なんだなぁと妙に感心したのを憶えている。

 そんなテクニカルセンターで、ボクたちはいつもの流れどおり1日2回ほどのスケジュールをこなし、ヘトヘトになっていた。それでもボクはショーの合間になると会場を抜け出しコースを見に入った。グランドスタンド下のトンネルをくぐるとピット側に行けることが分かり、そこに入り込んだ。土曜日にもかかわらず出入りに不自由はなかった。

 おそらくその週末はレースの開催日だったのだろう。サイレンサーも付いていない時代の2ストローク・レーシングマシンが、強烈な排気音を発してサーキットを疾走していた。ピットの屋上に登ると、山と鉄塔に視界をさえぎられた逆バンク以外は最終コーナーからダンロップ下までが一望出来た。コースを走っているライダーがどの程度のクラスの実力を持つのかは分からなかったが、間近に見る本物のレーシングマシンのストレートスピードは、ボクの度肝を抜くに充分なものだった。

 コースの設計初期には、1コーナーからピット裏に入り込むヘアピンが考えられていたのを知ったのは、随分後になってからのことだ。立体交差が三カ所もあるとんでもなく斬新なコースレイアウトだが、もしスズカがこんなカタチをしていたら、どんなレースが展開されたか、考えるだけでもゾクゾクしたものだ。このコース原案は、塩崎定夫という人物が描きあげたものだった。

 この塩崎さんと、グランプリチームのマネージャーでもあった飯田佳孝さんらが、ヨーロッパのサーキットの視察に出かけたのは、60年の暮れも押し迫った12月1日だった。彼らはスパ・フランコルシャン(ベルギー)、アッセン(正式名ファン・ドレンテ・サーキット=オランダ)、モンツァ(イタリア)、ゾリチュード(西ドイツ)、ホッケンハイム・リンク(西ドイツ)、そしてニュルブルク・リンク(西ドイツ)などを視察し、コースの作りはもちろん、必要になる付帯設備や、レース運営の現場をつぶさに見て歩いた。

 河島監督以下マシン開発に追われるメンバーと、塩崎さんらのサーキットプロジェクトチームのどちらの方が大きなプレッシャーに見舞われていたかは想像も出来ないが、「日本で初めてのサーキットを作るために現地視察をしてこい!」と言われた人たちの不安は察するにあまりある。なにしろ本物のサーキットなど見たことがある人間は日本には何人もいないのだ。

 それでも彼らは精力的に視察を進め、ついにオランダのザンドフォールトサーキットの支配人ジョン・フーゲンホルツという人物に辿り着く。彼はアッセンやホッケンの改修を担当した人物でもあり、コース設計の権威としてヨーロッパでその名を知られた存在だった。このフーゲンホルツ氏にコース設計を任せることを決定し、強行日程を済ませた視察メンバーは、ほっと胸を撫で下ろし、その後の壮大な計画に思いを巡らせながら、パリで1960年のクリスマスを迎えた。
、60年のシーズンを無事に終えてはいたが、もちろん優勝などにはほど遠く、最高位は250ccクラスでの2位が2回というものだった。世界的に見ても、いちオートバイメーカーが本格的サーキットを作るなど前代未聞。それも、まだまだグランプリでの駆け出しメーカーであるHondaがそれを実現するなど夢のような話だったが、ヨーロッパではすでにHondaは高い評価を集めていた。

 ヨーロッパでは、Hondaがグランプリで将来的に大きな役割を果たす存在になるとの予測に加え、本格的レーシングコースの建設に乗り出していることが報道されるとともに、やがて彼らは4輪のF1にも挑戦するに違いないとの予想が、この時点で流れていたのだから驚くしかない。はたして1960年当時、Honda社内でもF1への挑戦を夢見た人間が何人いたことだろう。

 しかし、Hondaの1961年3月の社報に掲載された「モータースポーツランドの基本的な考え方」には、当時の日本の遙か未来を見据えた「サーキット創設の主旨」が掲げられている。今から40年も前に、驚くべき見識が示されたその主旨の一部を、ここに紹介しよう。それはまさに、マン島出場宣言にも匹敵する、熱きメッセージだった。

 設立の趣旨の基本になっているものはモータースポーツの正しい理解に有ります。自動車産業が、国の代表的産業であるように、その普及によって出てくるモータースポーツもまた、国の文化水準のバロメーターです。そこには、自動車産業のもっているメカニズムが、総合技術の粋が、スポーツの姿の中にも活かされているべきではないでしょうか。これは先進諸国の文化の姿をみれば、もう言うまでもありません。同時に、日本の地理的環境にマッチしたモータースポーツの姿でもなければなりません。例えば、狭い地域でただスピードやスリルを求めたら、これは非常に危険な野蛮な遊戯になってしまいます。
 むしろ日本のモータースポーツとしては、そのような刹那的なものに走らないで、それが本来持っている科学性を活かし、技術と娯楽とを結び合わせて、しかも日本で求め得られなかったような健全スポーツとして世界的な文化レベルにまで引き上げる、またそこから新しい技術を育てる温床とする、このような考え方が必要となってきます。モータースポーツランドの主な目的もここにあるといってよいでしょう。これはとりもなおさず、わが国の自動車産業の担い手である私たちの、当然の義務であり信念であるべきではないでしょうか。
 最近の日本の自動車産業、特に二輪車業界が発展の一途を辿り、わが国の経済文化の発展に大きく寄与していることは言うまでもありません。それだけでなく、特にオートバイの技術については、すでに世界水準に達していること、これはTTレースや世界各地のレースでの本田製品の実績を考えてみるまでもないことです。
 ただ、ここで忘れてならないことは、ここまでくるまでのいろいろの技術障害ととりくみ、それを打開してきた努力と苦労の連続があったことです。中でも、走行テストを行うためのレース適地がないことは致命的障害とまでいわれてきました。それをいろんな形で克服して国際レースに出場し、見事な成績でその苦労が報いられながらも、なおかつ、そのようなレース場で実際に走ってみた結果から国内では予測されなかった技術上の問題が発見されている。「このことが、国際レース出場の、何よりの収穫であった」と、かつて社長の語った言葉が思い出されます。
 これだけでも、国内に国際的なレース場を開発することの大きな意義がおわかりのことでしょう。
今後の自動車産業の技術革新の鍵はレース場が握っています。現在では、日本の地理的環境から、さらに技術水準を世界的なものにする高速性能のテストはおろか、モーターサイクルを利用して楽しむ、安全にして健康的なモータースポーツ施設は、五万台を超える自動車保有に達しているわが国としては、まことに不満足な状態なのです。
 モーターサイクルはいわゆる精密技術の総合製品であり近代科学の粋が集大成されたものです。この科学の粋と人間の力を一体とした健全な国民的なスポーツとして普及させることは、生活余暇を積極的に楽しむとともに、安全で明るく正しい方向へ進めさせ、操縦技術やモラルを向上させることにもなり、社会公共的事業として非常に有意義です。
 現在のままですと、モータースポーツの本能的なスピードやスリル性だけがクローズアップされていて、それが日本のような狭い地理的環境の中で、極めて危険な不自然な方向に進んでいます。むしろそのような本能的なものではなく、モータースポーツ本来がもっている技術性に親しみ、またモーターサイクルでなければ味わえないような軽快性を楽しむ、ちょうど手近なゲレンデで家族ぐるみでスキー技術を楽しむようにオートバイの馬力や操縦性が気軽に楽しめるようにしたいものです。このようなモータースポーツの健全な発展のために、全国各地にその安全性その他あらゆる面で配慮されたゲレンデ的スポーツ施設が必要です。
 前述のように、自動車は近代科学の結晶であり、これを安全に楽しみながら、理解し体得することは、二十世紀も後半に入り科学の振興が叫ばれている現在、とくに次世代をになう青少年に対して非常に価値のあることであり、このような青少年のための施設が必要です。
そして、この趣意書は、次の文で結ばれている。
「私たちは、だれも気がつかないことであったものを、新しいアイデアでそれをとりあげ、実現していくことに強い誇りを持ちたい、そして、これは単に本田技研の付帯事業ではないこと、むしろ本田技研の本来の使命が、社会的な広がりの中にどっかり根をおろすための、当然なさねばならぬことの第一着手であることに留意しましょう。私たちの今までやってきた事業活動に、永続的な生命を吹き込むための事業であること、これらのことを正しく理解することから、始めましょう」
 がむしゃらだけど、しっかりと現実と未来を見据えたこのメッセージは、日本という国がモータースポーツに本格的に挑むための「独立宣言」に近い重みをもっていたのではないだろうか。
、鈴鹿の地に資材などが運び込まれ、8月25日の地鎮祭に続いて、現地には力強い鍬音が響きわたった。ちなみに我が国に初めて高速道路が開通したのは1963年。しかしそれは名神高速の尼崎〜栗東間が一部開通したに過ぎず、名神が全線開通するのは65年のことだった。日本の動脈と呼ばれる東名高速の全線開通は69年を待たなければならない。そんな時代に、本格的サーキットを建設しようというのだから、舗装をはじめとする技術的な問題は無限だった。

 コースの基礎工事、それにまつわる土木工事の困難さも関係者を苦しめたが、その路面舗装という肝心要の作業には未知の問題がいくつも潜んでいた。当時の日本の一般的な舗装と言えば、真夏には解けてドロドロになる劣悪なアスファルトが一般的。オートバイのサイドスタンドがズブズブと路面に潜り込んでしまうのも珍しいことではなかった。さらに走行ラインは次第に陥没し、アスファルトの轍があらわれて排水を困難にするなど、今では考えられないような幼稚な技術しかなかったのである。路面舗装を請け負った(株)日本舗道ではドイツのアウトバーンやヨーロッパのサーキットの舗装技術を研究し、それまでにない最高のサーキット路面を実現するために日夜技術開発が続けられた。

 こうして採用されたのは、まずセメント土管を埋設し、その上に密粒式アスファルト・コンクリートを4.5cmの厚さで舗装。さらにその上に特殊滑り止めアスファルト・コンクリートを3.5cmの厚さで舗装するという手の込んだものだった。また、路面全体の平坦度を出すため、大型の路面フィニッシャーを導入し、滑り止めの表面を保持しながら全体を平滑に仕上げるという、万全の措置がとられていた。

 そして1年の時を隔て、鈴鹿にサーキットが完成する日がやってきた。1962年9月20日、鈴鹿サーキットは無事に竣工式を迎えた。記念すべき初のレースが開催されたのは11月の3〜4日。第一回全日本選手権ロードレース大会と銘打ったこのレースの開催は、まさに日本のモータースポーツが自らの力で走り始めた証でもあった。

 2002年春。新生MotoGPの開幕戦となる鈴鹿は、ちょうど誕生40周年という節目の年を迎える。2輪の世界GPをはじめとして、F1や8耐、さらに様々なレースやイベントの開催など、鈴鹿はその歴史の中でいつも日本のモータースポーツの中心的役割を果たしてきた。そして「バイクやクルマはレースをやらなければ良くはならない!」という当初の思いは、見事に成就されたに違いない。

 鈴鹿は、昨年までにその来場者数がすでに1億人を数えたという。これまでのべ1億の人たちが、そこで何を見て何を感じたのか。そこにある強烈なエネルギーに何を触発されたのか。そして鈴鹿という偉大なモニュメントが、一人一人の心のどんな部分を刺激してきたのか。そんな事に大いに興味を持ちながら、ボクはMotoGPの開幕を迎える鈴鹿を、再び訪れてみようと思っている。
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