Hondaのテストスタッフは、遙かエントリーゲートの方向に立ちのぼる砂埃を発見して、緊張に身を引き締めた。その日のインディアン・デューンズ・モトクロス・パークはHondaが貸し切り、わずか4人のテストスタッフで極秘テストを行っている真っ最中だった。ロサンゼルスからそれほど遠くない場所に位置しながら、普通のモトクロス場の何倍もの広大な面積を誇るインディアン・デューンズは、人知れずマシンの開発テストを行なうにはうってつけのコースだったが、そこに誰かが侵入してきたのは確かだった。
、アメリカのテレビドラマで人気を博したキーナン・ウィンというバイクマニアの俳優がいた。彼は、バイク好きの芸能人…といったレベルをはるかに超えて多くのコンペティションにも出場し、ハリウッドにおける本格的ライダーの第一人者の立場にあった。伊藤史朗が出場したことでも知られるカタリナGPなどは、彼のお気に入りのレースだった。
もともとテレビドラマから俳優人生をスタートさせ、テレビシリーズ「拳銃無宿」でその名を広めたマックィーンにとって、テレビ業界の先輩であるキーナン・ウィンの影響は決して小さなものではなかった。彼らは、エルビス・プレスリーの様にヒラヒラのウェアで成功の証としてハーレーに跨るような愚行は犯さなかった。撮影の合間を縫ってオフロードライディングに汗を流し、早くからスポーツとコンペティション寄りのいかにもアメリカ的なファンtoライドを満喫していた。
・デューンズでテストされていたマシンは、1973年から市場に投入される予定の市販モトクロッサーCR250Mだった。世界的映画スターのわがままを発揮してなかば強引にCRのシートに跨ったマックィーンは、この日ライディングを楽しむはずだった自分のCZの事など忘れたように、ご満悦の表情だった。そして、エンジンをかけた彼は、CRをインディアン・デューンズの広大なフィールドに解き放った。
「何かあっては大変なことになる」 Hondaのスタッフは彼の後を追った。しかし、マックィーンの走りはまさに本物だった。細かいテクニックを要するタイトなコーナーでこそ追いつくものの、豪快なワイドオープンが許される区間では、どんどん引き離されて行く。さらに大きなうねりを2連で跳んだり、追走するスタッフをからかうように振り返ったり、マックィーンは実に楽しそうに、自在にCRを操った。それはまるで、目の前に「On Any Sunday」を見ているかのような、夢のようなシーンだった。
「とんでもないスターがいるもんだ」 アルミタンクのエンプティが近づいてやっとCRを降りたマックィーンに、スタッフは呆れたようにつぶやいた。しかし、彼が発した言葉はさらにスタッフを困惑させた。 「これが、欲しい!。今すぐ売ってくれないか」
マックィーンのおごりでランチをともにすることになったHondaスタッフは、ある情景を思い浮かべていた。ブラウン管に映し出される、インディアン・デューンズをCRに乗って自由に疾走するマックィーンの姿。夢の夢とは分かっていながら、もしそんなことが実現出来たら、これ以上はないコマーシャルフィルムになることだろう…。
ぼんやりとマックィーンを見つめるスタッフに、彼は尋ねた。 「ところで、このバイクは何という名前なんだい?」 それがCR250Mというタイプ名であること。そして、あるニックネームをつける予定でいることが告げられた。 「ロスの近くで開催されるエキサイティングなエンデューロレースにちなんだ、美しい湖の名前を添えようと思っているんだ」 それはまさに、偶然の一致だった。マックィーンは嬉しそうにウィンクしながら、親指を突きだして、すべてを快諾した。