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東京は梅雨入り宣言をしたばかりにもかかわらず、午前中の空はなんとか晴れてキラキラとした陽射しが輝いていた。ボクは太陽を見上げながら、その日がとっても思い出深い、大切な日であったことを思い出していた。

 22年前の、6月7日。東京は梅雨入りどころか真夏の陽射しに近い快晴の暑い日だった。某二輪専門誌の編集部に籍を置いていた駆け出しのボクは、編集部からほど近かった原宿の明治通りに面したヤシカビル(今は京セラ原宿ビルと呼ばれている)まで、汗を拭き拭き歩いて取材に向うところだった。当時Hondaの本社は、そのヤシカビルの中にあった。時間に遅れそうだったわけでもないのに、ボクは妙に急ぎ足で歩いていた。

 「Honda、4ストロークGPマシンを発表」

 その発表会に向かう時の緊張というかドキドキというか期待感というか、とにかくそのワクワクした気分は、その日の強い日差しのように今でもボクの中にハッキリと残っている。1979年6月7日は、伝説の4ストロークGPマシンNR500が、ついに我々の前にその姿をあらわした日だった。

のシーズンをもって、それまで9年間にわたるロードレースGP活動から撤退したHondaは、その後しばらくの沈黙を経て耐久レースへの復帰を果たしていた。1975年からヨーロッパ選手権格式となった耐久レースチャンピオンシップに翌'76年からRCBを参戦させたHondaは、初年度から大活躍を見せてタイトルを獲得していた。その戦績には目を見張るモノがあったし、レース好きのみならず多くの二輪ファンの胸を躍らせたのは確かだ。しかし、多くの人の心の中に「Hondaこそ、GPへ」と期待する気持ちがあったのは偽らざる真実だった。

 それから10年後の'77年12月、CBXを初めとする'78年ニューモデル発表会の席上、河島社長から「Hondaは世界GP500ccに出場する用意がある」というエキサイティングな発表があって以来、約1年半。ついにその日がやってきた…という感じだった。Hondaの'60年代におけるGPチャレンジに並々ならぬ興味と興奮を憶えていたボクは、高鳴る気持ちを抑えながらNR500発表の会場へと急いでいた。

 当時、ロードレースのワークスマシンを間近に拝めるというのは、滅多にある機会ではなかった。現在のように全日本選手権にワークスマシンが毎戦出場していたわけではなく、ヤマハとスズキが最終戦日本GP(国内格式)にたまにYZRやRGBを出場させるくらいで、500ccクラスのワークスマシンは、現在では考えられないほど遠い遠い存在だった。サーキットではピットのシャッターは閉まったままが当たり前で、走行に向かう時だけに中からあらわれるワークスマシンが、実に神秘的な存在として神々しく思えた時代だ。

 GPでは、ヤマハYZR、スズキRGB、カワサキKRなどの日本製ワークスマシンが本領を発揮してめざましい活躍を繰り広げ、各クラスとも'70年代の象徴でもある優れたプライベーターがその牙城を突き崩すべく奮闘を見せていた。そこには、'70年代ならではの素晴らしいGPシーンが数多くあったが、現在のように充分な報道がなされていたわけでもなく、遙か異国のエキゾチックな出来事としてGPやワークスマシンを感じることが精一杯だった。

 しかし、こちらの必要以上の期待を裏切るかのように、NR500はあまりにもあっけなく、我々の前に姿をあらわした。スルスルと押されてきたNRはヒョイとレーシングスタンドに立てられ、会場中央にポツンと据えられた。まさに手が届く位置に、Honda10数年ぶりの世界GP用ワークスマシンが置かれた。会場には、歓声とも溜息ともつかない声があがった。そこには、見たこともないモノを目の前にした驚きと戸惑いがあった。「えっ、これが4ストロークGPマシン、NR…?」ボクの中には、あっけにとられたような感情があった。

 NR500は、驚くほど小さかった。まるで250ccクラスのマシンのようなコンパクトさだった。いくらかは見慣れていたYZRやRGBと比べて、明らかに異質なマシンであることはすぐに分かった。その印象は、細部を見ていくにしたがって強くなった。見たこともない機構やパーツの集合体だった。にわかには理解しがたいマシンだった。少なくとも'60年代のHonda GPマシンの面影はどこにもなかった。耐久で活躍するRCBともまったく違っていた。本当に、今まで見たこともないマシン…というのが素直な感想だった。

の隙間から中を覗いたところで、エンジンが見えるような代物ではなかった。アンダーカウル部分をアルミ・モノコックボディとしたNRは、ギッチリと具の詰まったマシンで、'60年代のマシンのように「あぁ、シリンダーが6本並んでいるのね」などという、のどかな風情はなかった。辛うじてカウルの隙間から内部をのぞき込めば、1気筒当たり2本のプラグが装着されていることがわかる程度だった。

 会場のあちこちでひそひそと語られていた「ピストンが楕円形らしい」という推測を裏付けるかのように、そのプラグ間隔は離れ全部で8本のプラグコードを確認することが出来た。タコメーターに示されたレッドゾーンは、19,400rpmからだった。何度見直しても、その赤いテープは19,400rpmに張られていた。「マジっすか?」それが素直な印象だった。そんな所まで回るエンジンを、ボクは知らなかった。'60年代のマシンは確かにそうであったのだが、実際にタコメーターに張られたテープには、恐ろしいほどの現実感があった。

 ヤマハのモノクロスのようなカンチレバーのリアサスは、どうやらリンクを介してショックユニットにつながっているようだった。最初はNRを遠巻きにしていたプレスが次第ににじり寄って行くのを良いことに、ボクはシートカウルの中に手を突っ込んでみた。スイングアームの先にリンクがあって、ショックユニットを押しているのは確かだった。

 カウルの開いている部分から中身をゴニョゴニョ触っていると、柔らかい物体を感じた。それは、マシンの向こう側からやはり手を突っ込んでその辺を探っている、モーターサイクリスト編集長・橋本茂春さんの手だった。シートカウル越しに目が合った橋本さんは「やっぱりリンクがあるね!」と、子供のように目を輝かせていた。

 橋本さんも、'60年代のGPが大好きな人だった。浅間レースの頃から、実際に自分でレース取材をしていた橋本さんに、ことあるごとに当時の様子を聞くのがボクの楽しみだった。機械好き、人間好き、そしてレース好きの橋本さんは、時間も気にせず口に泡をためて、他社の人間であることも関係なく一生懸命に話をしてくれたものだった。
 「これで、レースが面白くなるってもんよ」NRのシートカウルの向こう側で、橋本さんはちょっとヤクザっぽく、ボクにそう言ってみせた。

 ただ、ボク自身の素直な感想は、NR500にあっけにとられるばかりだった。本当にこのNR500とやらがGPシーンを走るのだろうかという漠然とした「?」もあった。とにかく唖然として、でもHondaが遂にGPに復帰するんだ…と言う期待感に満ちて、ボクの1979年6月7日は過ぎていった。

での発表から1週間後の6月13日水曜日、NR500は鈴鹿を走った。しかし残念ながら、快調にシェイクダウンを消化した…と言うにはほど遠いテスト走行だった。2台用意されたNRの一方は、始動した途端にエンジントラブルに見舞われたようで、RSCの建物に姿を消したまま二度とコースには出てこなかった。

 もう1台はそれでもピットインを繰り返しながら周回を重ねていたが、とてもレーシングスピードと言える走行ではなかった。どこが不調でどの部分のテストに重きを置いているのか、まったく想像すらつかなかった。なにしろマシン全体が宇宙から来た乗り物のようなモノだった。

 テストを担当したライダーは、片山敬済とミック・グラントだった。片山さんは、やはりどこか不満げな様子をみせていた。周回を終えてピットに戻り、スタッフと僅かな会話を交わして姿を消してしまう片山さんに、ある種の苦悩が見て取れた。前途が多難であることは充分にうかがい知れた。RCBのデビューのように、最初からレースの主導権を握れるような華々しい気配は感じられなかった。

 そのシェイクダウンが行われた週末の6月17日、ヨーロッパではユーゴスラビアGPが開催されていた。500ccクラスでは、ポールポジションのケニー・ロバーツ/YZR500が、束になってかかるスズキRGB勢を押さえ込んで、シーズン4勝目をマークしていた。

 ケニーは、'73年にAMAのグランドナショナルチャンピオンを獲得し、'74年に鳴り物入りでGPへの参戦を開始していた。彼が初めての世界選手権ロードレースを経験したのは、'74年6月29日のダッチTT250ccクラスだった。ケニーはそのデビューレースでいきなりポールポジションを獲得。結果は3位だったもののファステストラップも記録し、周囲を震撼させていた。

 そのレースで、やはり初めて世界選手権への参戦を果たしたのが、国内でセニアに昇格したばかりの片山敬済だった。ふたりの世界選手権へのデビューレースは、奇遇にも同じGPだった。片山はデビュー戦こそリタイヤとなったが、参戦3レースめのスウェーデンで早くもGP初優勝を達成し、日本人期待のGPライダーとして将来に限りない期待が寄せられることとなった。
1979 GP500ランキング
1 K.ロバーツ アメリカ Yamaha 113
2 V.フェラーリ イタリア Suzuki 89
3 B.シーン イギリス Suzuki 87
4 W.ハルトフ オランダ Suzuki 66
5 F.ウンチーニ イタリア Suzuki 51
6 B.ファン・ドルメン オランダ Suzuki 50
7 J.ミドルブルグ オランダ Suzuki 36
8 R.マモラ アメリカ Yamaha 29
9 P.クーロン スイス Suzuki 29
10 T.ヘロン アイルランド Suzuki 28

 250ccクラスでは、ライムグリーンのカワサキKRを駆るコーク・バリントンが他を大きく突き放していた。KRとバリントンのこのクラスにおける実力は、桁違いのようだった。ただひとり、個人的に大きな興味を掻き立ててくれたのは、長髪のヒッピーのような容姿のちょっと風変わりなイタリア人ライダーが、モルビデリのマシンを駆ってKRの牙城に時々食い込んでくることだった。

 6月17日のユーゴGP250ccクラスでKRを押さえ込み、自身初めてのGPウィニングを勝ち取ったいかにも不良っぽいそのライダーには、丁度その4ヶ月前の2月16日に待望の男の子が誕生したばかりだった。モルビデリワークスのエースライダー、グラツィアーノ・ロッシのGPにおける活躍は、始まったばかりだった。

<続く>

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