鈴鹿8時間耐久ロードレース
特集

失敗から生まれる勝利。Part3 : 勝利へ向けての準備

  • Part1
  • Part2
  • Part3

Part3 : 勝利へ向けての準備

91年、勝利の裏側

ウエットコンディションで始まったレースは、不安定な天候によって路面状況が著しく変化するものとなり、ライバル=ヤマハとの接戦となった。そして、レースが5時間半を経過したころ、トップを走行していたガードナーがピットインした際のタイヤ交換で、ブレーキキャリパーが閉じてしまうアクシデントで作業に手こずり、約50秒あったアドバンテージが消え、さらに20秒のビハインドを負うことになってしまったのである。

結果的には、その後にライバルがコースアウトしたことによって難なく優勝できたものの、どれだけ事前に準備をしても、それでもなお想定外のトラブルは起きた。練習で一度もミスのなかったブレーキキャリパーのトラブルは大きなショックであり、改めて固定観念の見直しを実施。レースで100%はありえないことを証明することになった。

  • 1991年
  • 1991年 ワイン・ガードナー
  • 1991年 ワイン・ガードナー
  • 1991年 ワイン・ガードナー

コースアウトを喫したヤマハのケビン・マギーは、前年の世界GPで負った重傷からの復活レースをこの年の8耐に定めていたこともあって、不安定な路面状況の中をアグレッシブに攻め過ぎた。そうでなければトップを奪取できないほど、HondaのNo.1ペアには圧倒的な安定感があったのだが、ガードナーはチームの主導権をドゥーハンに移譲し、ドゥーハン仕様のセッティングに合わせるという納得の上で健闘を見せていた。この2人は同郷の先輩後輩である以前に、高いプロフェッショナルリズムを備えたライダーであったから、そのコンビネーションはかつてないレベルの高さにあったはずだ。

マシンの完成度、ライダー選択、そして天候が、ピットワークにおける作業ミスをリカバーするだけの総合力をHondaのNo.1ペアにもたらしたといってもいいだろう。“わたしの記録”では、ライダーの組み合わせについてはもちろん、変化する天候を味方につけることにも言及している。

『チームメンバーが浮き足立って、普段の実力が出せない過去の例を聞く。そのためにも、事前訓練の積み上げが大切である。通常ピット作業以外にやるべきことを明確にし、誰が何を行うのか役割を決め、訓練をしておく。この時の基準タイムも決め、タイム目標を超えるまで訓練をする』

『ライダーも同じである。急変の判断はライダー任せであるが、自分のスキルが雨に対し、どのくらいあるのか自覚しておかなければならない。ライダーの過信は最悪を招くことをチーム監督は例をあげて助言しておく』

もちろん、細かいミスは必ずといっていいほど発生するのだが、80年代後半から90年にかけて発生した致命的なミスは姿を消した。ピットワークなど、レースを支えるソフトウェア作りの総仕上げとなったのは、奇しくもガードナーが引退の花道を飾った92年の8耐であった。その後、8耐におけるHondaは93年、96年、2007年、09年と優勝を逃すことになるが、いずれも転倒が原因であった。すなわちそれは、勝つために最初に来る要素であり、レースの行方を最後まで左右する不確定要素でもある、ライダーの問題ということである。

しかし、これすらもある程度コントロールできる傾向にある。長い8耐の記録を精査すれば、転倒したライダーの多くが、8耐初出場のライダーであることが分かるだろう。あるいは負傷から復帰したばかりのGPライダー、あるいは普段は異なるジャンルで活躍する者同士のペアなどに、転倒というアクシデントが見舞うのは統計的に明らかだ。そして、外国人同士、日本人同士のペアが、よい結果を残すことも、長年の試行で明らかになった。97年の伊藤真一/宇川徹組の、日本人ペア初優勝がその成果といえる。

鈴鹿8耐TOPへ