

「インディ・プロジェクトの最前線基地として」

1994年からのインディ参戦に向けて、HPD(ホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント)が設立されたのは、その前年の1993年でした。完全なワークス体制でチームにエンジンを供給することになり、日本の研究所でエンジンを設計・開発することになったのですが、広大なアメリカだけに、フォローする会社が現地に必要だということになったんです。

それに、アメリカのプロジェクトですから、日本人が大挙して現場に訪れるようなことではダメだというのが、首脳陣の考えでした。1959年のアメリカ現地法人の設立以来、常に現地に住むアメリカ人とパートナーシップを組んで成長してきたHondaは、やはりレースにおいても例外はないということです。
当時はPPGインディカー・ワールド・シリーズと言って、インディ500以外に市街地やロード・コースも組み込まれた全16戦のシリーズでした。1979年からCART(チャンピオンシップ・オート・レーシング・チームズ)が運営し、アメリカとカナダ以外にオーストラリアでもレースを開催。日本のメーカーが参戦するのは初めてのことだったので、最初はインディ村に住民登録するというか、仲間に入れてもらおうという感じでしたね。
日本の研究所ではそのようなアメリカン・ホンダの考えに基づいてエンジンを開発し、完成したエンジンを送るのではなく、パーツだけをHPDに送って現地のスタッフで組み上げ、しっかりとエンジン・ダイナモでチェックしてから参戦チームに届けることになりました。規定の走行距離に達したエンジンも HPDでリビルトし、すべてのパーツを検査してから組み上げて入念にチェック。その後、再びチームにデリバリーするといった具合です。
