Hondaモータースポーツグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード


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ジョン・サーティース、Hondaを語る

「レーシング・カラーズ」の象徴となったHonda

 今回、RA272のステアリングを握ってコースを疾走したのは、ジョン・サーティース。彼は言うまでもなく1966年にHondaと契約、3リッター時代のエースを務めたドライバーである。

 Hondaと契約を結ぶ時点でサーティースは、MVアグスタで二輪世界GPチャンピオンとなり、四輪のF1でもフェラーリで世界チャンピオンになったスーパースターであった。そのサーティースはどんな思いで極東の新興チームと契約し、日の丸を背負って走ることを決めたのだろうか。

 
かつての愛車RA300を駆るジョン・サーティース。ただし、土曜日に路面のオイルに乗ってしまいボディを破損、日曜日は走行できなかった。
「フェラーリでF1チャンピオンになったが、その後シーズン途中で政治的な問題が起きてチームとの関係が悪化し、フェラーリを離脱することになった。その時、他にも選択肢があった中でHondaを選んだのは、二輪から四輪へ来たというバックグラウンドが自分と重なり合うという点に興味をひかれたからなんです。特に、Hondaのモーターサイクルでの成功の軌跡には以前から注目していたし、まさに新しいチャレンジをする場として最高の機会だと思いました。

 他チームのように経験値のない分、すべて新しく一緒につくっていくという作業は、まるで新しい家族に迎えられたかのような気分で、本当にモチベーションの高まるものでした。私は、日本の国旗がデザインされたマシンに乗れたことを素晴らしいことだと思います。日本を代表するというHondaの姿勢に対しても誇りをもっていたし、ナショナリズムの象徴だと思ったので、もっともっと他の国もナショナリティーを主張するカラーリングをすればいいのに・・・とさえ思っていたものです」

 サーティースにとっては遠い国であるはずの日本からやってきたHondaのF1チームに加わって、彼は何を感じたのだろう。

「自分が当時Hondaと共に経験してきたことを思い出しながら、現在のHondaという会社を見て、Honda哲学を改めて知ることになりましたね。Hondaはレースに出てその技術力を証明することにより、最終的にHonda車を購入したいという意思に導く、という方針を常に視野に入れていたのだと思います。モータースポーツというフィールドの中で、ただレースマシンの技術面をひけらかすだけではなく、その技術を常に将来に向けて継続的に伝えていくために、エンジニアの育成にも力を注いできました。





1967年 、F1グランプリは3000ccフォーミュラとなり、Hondaは新たにスーパースター、ジョン・サーティースと契約してエースに据えた。初代RA273は大きく重いマシンで、エンジン性能を活かしきれなかったが、シーズン途中で投入したRA300はデビュー戦であるイタリアGPでHondaにとって2回目の優勝を記録した。RA300のエンジンは、外側吸気内側排気のレイアウトをとっていたため、コックピットに座ったサーティースの背後にはエキゾーストパイプが力強く盛り上がっているのが見える。Hondaの技術者たちは、すでにシリーズチャンピオン獲得を目標に定めて走り始めていた。




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