Hondaモータースポーツグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード


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「レーシング・カラーズ」の象徴となったHonda

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レースではライバルでも目的が同じ仲間でもあった

 観客はともかく、ヨーロッパのレース界は、東洋からいきなりF1の世界へ飛び込んできたHonda F1を果たしてどのように受け止めたのだろうか。どんな走りをするかわからないHonda F1と無名のアメリカ人ドライバー、ロニー・バックナムがレースに出走することに、難を示す向きもあったという。しかし、その後Hondaとバックナムが実際にコースを走り始め、実力を見せつけると、急速に融和が進んでいった。それはメカニックのレベルでも同じことだった。

グッドウッドは普段近寄れないスター選手とも気軽に交流できるイベント。ニッキー・ヘイデンにサインを求めるファンたち。
「当時はイギリスのチームが多くて、使っていた部品の単位は“インチ”でした。それに対し、フェラーリなどイタリアのチームは“センチ”。我々は比較的パーツをきちんと揃えていましたので、部品が足りなくなると、イタリアのメカニックがしょっちゅう『こんなボルトはないか、こんなナットはないか』と来るんですよ。そうやって協力し合っているうちにすぐに仲良くなっていきましたね。これに対してイギリス系のチームとは、なかなか接点がなかったうえに、比較的クールな人が多かったので馴染むのには時間がかかりました。

 それでも翌年にはわたしはブラバムHondaのF2のチームでも仕事をするようになって、みんなでお酒を飲みに行くうちに、言葉なんかわからなくっても仲間になっちゃったという感じでしたね。当時F1をやっていたチームは全体で一つの仲間のようなものでしたから、接点さえあればすぐ馴染めたものですよ」


40年前のHonda F1及びF2マシンと記念写真を撮るB・A・R Hondaドライバー、ジェンソン・バトンとアンソニー・デビッドソン。
歴代Hondaレーシングマシンを並べたパドックは、終始ファンが取り囲み、マシンに見とれ、技術者に質問を投げかけた。
F1初優勝から40年の意味

 あれから40年以上の時間が過ぎた。今や世界のヒストリックカーイベントの頂点に成長し、世界各国から参加者を集めるようになった大イベント、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードで、今年Hondaはメインスポンサーを務めることになった。つまりは、ヨーロッパのレース史の象徴として選ばれたのだ。もちろん日本の自動車メーカーとしては初めての栄誉である。そしてHonda F1のアイボリーホワイトに日の丸を描いたカラーリングは、主役を引き立てる衣装となった。

 グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードの主催者であるマーチ卿の邸宅前に建設される、いわゆるセントラル・ディスプレイは、毎年メインスポンサーがプロデュースするモニュメント。今年、Hondaは初めて動きを取り入れた大規模なデザインを採用して大きな話題となった。このセントラル・ディスプレイのデザインは、主催者側がいくつかのアイデアをメインスポンサーに提案し、その意向を聞いて決めるものであるが、今回Hondaは、前代未聞の可動形式の案を迷わず選んだ。Honda U.K.のPRマネージャーは言う。

「確かにとても高価なものになりましたが(笑)、動くことにこだわったのです。動くことで人を驚かせたかった。それがHondaのテクノロジーの象徴だと思った。人が信じられないようなことをやってしまうのがHondaのイメージなんですから」

 Honda U.K. は今年で創立40周年、奇しくもHonda F1が初優勝を遂げたのも40年前のことだ。今やグローバルカンパニーに成長したHondaで働く英国人スタッフにとって、白地に日の丸というナショナルカラーに彩られたHonda F1はどのように見えるのだろうか。そう訊ねると、彼はきわめて興味深い感想を述べた。 「当時のHondaという会社の技術を象徴するという意味で、ナショナルカラーをつけたF1マシンを今回のグッドウッドで絶対に走らせなければいけないと思っていました。確かに今ではグローバルカンパニーではあるけれども、ヨーロッパでHondaは、かつて全く異質の技術をヨーロッパに持ち込んだ日本の会社として記憶されているし、その並外れた技術のイメージは、大事にしなければいけないと思うからです」



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