Hondaモータースポーツグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード


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メカニック泣かせのカラーリング

 1964年半ば、実戦車両であるRA271は完成後、まともな試走もできないままカーゴ便に載せられてヨーロッパへ送り込まれ、アイボリーホワイトに日の丸を描いた姿で、F1グランプリの晴れ舞台にデビューを果たした。当時Hondaはすでに二輪の国際レースで世界中に名を轟かせ、オートバイ好きには憧れのメーカーとなっていた。しかし、64年の段階では、四輪事業は小規模に始まったばかり。要するにオートバイメーカーがいきなりF1のグランプリマシンを開発し、日本の象徴である日の丸カラーを身に纏って、四輪レースの最高峰に挑戦するため本場ヨーロッパに乗り込んだのである。

 一見無謀とも思われる挑戦だったが、脅威だと報じた海外メディアも多くあった。しかし、それを走らせるために派遣された当時24歳だったメカニックは、英語もまともにできないまま初めての海外渡航、というこれもまた無茶な体制でもあった。だが「行ってこいと言われれば、行って仕事をして結果を出すしかない」というのが、当時のHonda社内では当然の空気だったという。

 当時、日本にはF1のレーシングドライバーがいなかったため、十分な試走を行えないまま、オランダのザンドボールトサーキットに搬送されたRA271。実戦ドライバーのロニー・バックナムでテスト走行をするため、未完成にも近いそのマシンを、すぐさま走行できる状態に組み立て、整備に取りかかる。一方、「二輪で大活躍したあのHondaがF1を送り込んできた」と知ったヨーロッパのジャーナリストが早くに押し寄せ、その様子の取材を始めていた。白地に日の丸を描き込んだマシンは彼らの目にどう映ったのだろうか。



 記憶をたどるも、「とにかく周囲でカメラのシャッターがパシャパシャ押されている音は憶えているが、相手がどんな様子だったかはまったく憶えていない」。というのも、メカニックたちは限られた時間、わずか数人という限られた体制でマシンを走行可能な状態に組み立て直し、走らせて実戦のためのテストを行わなければならず、整備に没頭せざるをえなかったからだ。

 またおもしろいことに、メカニックの立場からはこのカラーリングには賛否両論あったようだ。「当時はイギリス系のチームが多く、濃い色のマシンが多かった。走っているマシンの状況が心配で仕方がない我々にとって、白い色は遠くからクルマを見分けるのに便利でした。でも、この色はメカニック泣かせでもあったんです。

 というのもボディが白いから、走らせるためにひっちゃきになって油まみれの手で整備すれば、最後はあちこち油だらけになっちゃって、今度はその油を全部拭き取ってきれいにしなくちゃいけない。1秒でも整備する時間が欲しいのに、そういう時間が必要になる。クーパーみたいなダークグリーンだったら、少しくらい油がついていたって目立たないのになあ、メカニックとしてはできたら違う色が良かったかなあ、と思ったこともありますよ」と笑った。

 さらにこの日の丸に対しても、メカニックならではの思い出がある。
「今だから言えるけれど、高速で走ると、ブレーキマスターシリンダーのブレーキオイル用リザーブタンク周囲の空気が負圧となり、リザーブタンクのブレーキオイルがにじみ出し、外へ流れ出てくるんです。そのオイルがちょうどこの日の丸のところへ流れてきて赤い塗料を溶かしてしまう。だから常に塗料を持っていて、走行ごとにその都度タッチアップして修復したものですよ」
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1964年 シーズン半ば、Hondaは四輪モータースポーツの最高峰、F1グランプリにデビューし、2年目の65年シリーズ最終戦メキシコGPでわずかデビュー11戦目にして初優勝を遂げた。1500ccフォーミュラ最後のレースでもあった。ドライバーはアメリカ人のリッチー・ギンサー。車番11のギンサー車に寄り添うのはお話を伺った岸メカニック。日本から立ち会ったのは数人の技術者たちで、限られた人数で世界を転戦、寝る間もない作業が続いたという。「Veni Vidi Vici 」(来た、見た、勝った)という名電報を打った中村良夫監督と共に表彰台で喜びを分かち合うリッチー・ギンサー。



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Hondaモータースポーツグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード
「レーシング・カラーズ」の象徴となったHonda