HondaモータースポーツF1佐藤琢磨
佐藤琢磨 -後編-
 しかし、琢磨の2005年シーズンを、いったいどう説明すればいいのだろうか? 開幕戦オーストラリアGPの予選ではアタック直前になって雨が降り出し、第2戦マレーシアGPはウィルス性熱病のため欠場。第3戦バーレーンGPは好バトルを演じて観衆を沸かせたものの、レース中にブレーキ・トラブルが発生してリタイヤ。さらに、第4戦サンマリノGPではチームに最低重量違反の嫌疑が掛けられ、せっかく5位でフィニッシュした琢磨のリザルトまで取り消されてしまった。その後は2戦の出場停止、さらに第9戦アメリカGPはタイヤ・トラブルが引き金となってB・A・R Hondaを含むミシュラン・ユーザーが揃ってレースを棄権するなど、不運が繰り返し琢磨に襲い掛かった。しかも、チームはマシンのポテンシャルを引き出すのに苦しみ、後半戦に入ってからも苦戦が続く。時おり、すべての条件が揃って上位進出に期待が掛かったが、そういうときに限って、レーシングアクシデントに遭遇して結果を残せない。果てしなく続くかのように見える不運の連鎖を、とうとう断ち切れないまま琢磨とB・A・R Hondaは2005年シーズンを終えた。

 こうしたなか、B・A・R Hondaはルーベンス・バリチェロを2006年シーズンより起用すると発表。この時点では琢磨とバリチェロがコンビを組むと誰もが信じていたものの、来期はウィリアムズへ移籍することになっていたバトンの残留が発表され、結果的に琢磨はレースシートを失う格好となった。琢磨の開発能力を高く買うチーム側はテストドライバーとしての残留をオファーしたが、あくまでもレースにこだわる琢磨との間に妥協点を見出すことはできず、最終的に琢磨はB・A・R Hondaより離脱することが決定する。
 そんな琢磨に白羽の矢を立てたのが、スーパーアグリ・F1・チームである。代表を務める鈴木亜久里は、Hondaの支援を受けてIRLやSUPER GTなどにエントリーするチームを運営してきたことで知られるが、その亜久里が、2006年シーズンのF1参戦を目指してチームを設立すると発表した。これが2005年11月1日のこと。しかも、Hondaからエンジン供給を受ける彼らは、佐藤琢磨をドライバー候補の筆頭に掲げていると公言したのである。
 この熱いラブコールに、琢磨の心は揺り動かされた。
 「(B・A・R Hondaからの離脱が決定的となった2005年)ブラジルGPの後で、2006年以降のF1をどう戦っていくか、自分なりに改めて考えました。僕のなかではあくまでもレースドライバーとしてこの世界で生きていきたいという気持ちが強かった。選択肢としては既存のチームにも可能性はあったが、ゼロからのスタートとなるスーパーアグリ・F1・チームとならば、F1チームを新たに立ち上げるというエキサイティングなプロセスに立ち会うことができます。これは貴重な経験となるはずだし、今後に役立つことは間違いないと確信しました。しかも、技術面ではHondaのバックアップも期待できる。つまり、スーパーアグリ・F1・チームは将来性の面でも大きな可能性を感じられ、しかも日本発信のF1チームという理念にも強い共感を覚えました。そこで、僕はスーパーアグリ・F1・チームと共に戦っていくことを決意したのです」
  日本人の夢を乗せて走り出す新プロジェクト、スーパーアグリ・F1・チーム。しかし、いくら鈴木亜久里や佐藤琢磨といったF1経験者が名を連ねるとはいえ、F1は世界最高峰のモータースポーツである。新規チームの前途が茨の道であろうことは容易に予想がつく。
 「そうですね、新しいチームで戦っていく不都合は、きっとあると思いますよ。でも、逆にいい部分だってある。先日もイギリス・リーフィールドのファクトリーを訪れてきましたが、スタッフは誰も純粋なレース好きばかりで、やる気に溢れていました。彼らの熱い思いは、ディスカッションをしていてもひしひしと伝わってくるし、そういうメンバーと一緒に仕事をしていると僕まで嬉しい気持ちになっています。おそらく、2006年シーズンの序盤戦は苦しい戦いとなるでしょうが、ヨーロッパラウンドに入るころから実力を養っていき、終盤戦の日本GPでは、皆さんの前できっちりといいレースをしたいと思っています。だから、いまは2006年シーズンの幕開けが楽しみで仕方ないのです」
 琢磨の夢と、われわれ日本人の夢を乗せたHonda F1は、これからも未来に向かって猛スピードで疾走していくだろう。(終り)
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