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B・A・R Hondaのテストドライバー兼サードドライバーとして過ごすはずだった2003年は、しかしシーズン終盤になって意外な展開を見せることになる。まず、最終戦の日本GP直前、琢磨が2004年からレースドライバーに昇進することが発表される。すると、本来のレースドライバーであるジャック・ビルヌーブが、これを受ける形で「日本GPは走らない」と言い出したのだ。このような場合、代役を務めるのがサードドライバーの役目である。こうして、琢磨は急遽、B・A・R Hondaを駆って鈴鹿での一戦に臨むことになった。
「夢を見ているんじゃないかって思いました」
琢磨はホームグランプリへの参戦が決まったときの喜びを、後にそう語っている。
まったくのぶっつけ本番で臨んだ日本GPで、しかし琢磨はレースエンジニアのジョック・クレアと早くも絶妙のコンビネーションを披露、どちらかといえばコンストラクターズ選手権の成績を優先する“チームプレイ”に徹したにも関わらず、琢磨は6位入賞でB・A・R Hondaからの初陣を飾ったのである。「マシン開発の仕事ももちろん興味深いんですが、やっぱりレースは格別ですね。特に序盤戦はライバルたちを次々と抜き去って、バトルの楽しさを思う存分味わいました。しかも、僕が入賞したことでコンストラクターズ選手権5位への返り咲きにも貢献できたし、本当に最高の形でシーズンを終えることができました。このときは、自分が正式にレースドライバーに昇格する2004年が待ち遠しくて仕方ありませんでしたね」
迎えて2004年、琢磨とB・A・R Hondaは期待通りのパフォーマンスを発揮する。予選ではシーズン序盤から確実にトップ10に食い込み、第5戦スペインGPでは3番グリッド、そして第7戦ヨーロッパGPでは“皇帝”ミハエル・シューマッハと並ぶフロントロウを獲得するなど、琢磨のスピードは間違いなく世界のトップに手が届くところに到達していた。ところが、レースではミステリアスなマシントラブルが頻発し、第8戦カナダGPまでは2戦に入賞したのみで、実力を出し切ったレースはほとんどなかった。
そうした鬱憤を晴らすような快走を見せたのが、第9戦アメリカGPだった。予選で3番グリッドを得た琢磨は、多重クラッシュでセーフティーカーが2度も出動する混戦で、一時11番手まで順位を下げたが、そこから圧倒的なペースで追い上げ、2台のフェラーリに続く3位でチェッカードフラッグを掻い潜ったのだ。これは1990年日本GPでの鈴木亜久里に続く、日本人F1ドライバーとして史上2回目の快挙である。
「表彰台からの眺めは一生忘れられないでしょうね。波のようにうねって見えるグランドスタンドの大観衆や、両手を挙げて大喜びするチームスタッフの面々。そしてシューマッハとバリチェロから受けたシャンパン・セレブレーションの冷たい感触と甘い香り。やっぱり表彰台は最高です」 そうは言いつつも、F1表彰台は決して琢磨の終着点ではない。「そう、ここは僕のゴールじゃなく、夢へと向かう新しい一歩なのです。だから、僕はこれからもずっと攻め続けて、上を目指して突き進んでいきます」
その後も琢磨はコンスタントに入賞を重ねていくが、結果的に表彰台はアメリカGPの一戦のみに終わってしまう。とりわけ惜しかったのが、4位でフィニッシュしたイタリアGPと日本GPの2戦。コンストラクターズ選手権2位を目指して総力を結集していたこの年、時にチームは琢磨のポディウム・フィニッシュよりも手堅いポイント獲得を優先させたため、このような結果となったのだ。「チームの方針により、常に最高の成績を目指して走りきったとはいえないのは残念でしたが、僕としては与えられた条件のなかでベストを尽くすしかありませんでした」 こうして琢磨のさらなる飛躍は、2005年シーズンへと持ち越されたのである。
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