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琢磨と同期でSRS-Fに入校したスクール生のなかには、カートの全日本タイトルを獲得したり国際的なカートレースに参戦する金石年弘や松田次生らも含まれていた。この時点でカート経験はまだ半年ほどに過ぎなかった琢磨に比べれば、ふたりはサラブレッドも同然である。けれども、スクールが始まるとすぐに、琢磨は彼らを凌ぐ速さを見せつけることになる。時には講師陣を打ち負かすこともあったそうだが、それでも琢磨は自分のドライビングテクニックを一心に磨いた。 「スピードという意味では、入った直後から誰にも負けませんでしたが、それでも自分の走りが完璧だとはまるで思わなかったので、データロガーで全員の走行データをチェックしました。講師陣の走行データを見るのはもちろんでしたが、ラップタイムで比べれば自分より遅いドライバーにもきっと何か学ぶべき点があるんじゃないかと思って、とにかく隅々まで見ていましたよ」
自分が本当に好きなフォーミュラカーに打ち込めること以外にも、琢磨がSRS-Fに惹きつけられるポイントは少なくなかった。 「まず、僕が最初に生でF1を見たのが鈴鹿サーキットだったということ。その同じサーキットを自分が走れるんですから、すごく嬉しかったですよね。しかも、当時は第2期Honda F1が全盛で、憧れのアイルトン・セナもHondaエンジンで走っていたので、Hondaには特に親近感を覚えていました。そのHondaと鈴鹿が共同で運営していたのがSRS-Fだったのですから、僕には夢のような環境だったのです」 そうした夢のような環境で、彼の才能は一気に開花した。琢磨はSRS-Fの最優秀ドライバーに選ばれ、翌年の全日本F3選手権参戦のチケットを手に入れる。そこからさらに渡英してエントリー・フォーミュラで実績を残し、2000年にはイギリスF3選手権にステップアップ、2年目の2001年に日本人として初のイギリスF3チャンピオンに輝いたことは記憶に新しいところだ。 同じ2001年にはB・A・R Hondaの若手ドライバー育成プログラムに参加し、F1マシンのテストにも携わるようになる。さらに、翌2002年にはジョーダンHondaからのF1デビューが決定、最終戦の鈴鹿ではトップチームに伍して5位入賞を果たし、15万人を超す大観衆を魅了したのである。それは、琢磨が19歳でカートレースを始めてから、わずか6年目の快挙だった。
琢磨が所属したジョーダンとB・A・RはいずれもHondaエンジンを使用していたが、ふたつのチームの違いを琢磨自身はどのような視点で捉えているのだろうか? 「2001年のB・A・R Hondaについていえば、あれは若手ドライバー育成プログラムの一環で、そのメンバーとして選ばれるとき、僕はチームが行なったオーディションに参加しているんです。そしてこのオーディションで僕は前年のイギリスF3チャンピオンを破っているのですから、いわば実力でテストドライバーの座を勝ち取ったことになります。いっぽうのジョーダンは、オーナーのエディー・ジョーダンがずっとイギリスF3に注目していて、そこで活躍していた僕にチャンスを与えてくれたんです。そういう意味からいうと、B・A・R Hondaと僕の結びつきはきちんとステップを踏んだ公式なものだといえるし、いっぽうのジョーダンとの関係は、エディー・ジョーダンという個人との結びつきから生まれたものだといえるかもしれません」 (後編に続く) |
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