ヨーロッパラウンドに入った第4戦以降、Honda Racing F1 Teamは成績不振に苦しむことになる。開発の方向性に、迷いが出てきたからだった。しかし軌道修正の作業も徐々に進み、本来の戦闘力が出せる兆しは出てきていた。そして6月のカナダGP直前、チームは中本修平シニア・テクニカル・ディレクターを技術部門の頂点に据える体制改革を敢行した。
ミシュランもわかってくれて、カナダGPからはHonda用のタイヤに戻してもらいました。でもまだ、中途半端でした。車体セッティングの考えとかは、まだ戻っていませんでしたし。それでも次のインディアナポリスでは、異常気温の影響もあったけれど、UKから直接指示を出して、少し持ち直しました。
−とはいえ次のフランスGPは、成績の上ではどん底でした。
でもホントは、クルマはよかったんですよ。ジェンソンはいいペースで、終盤10番手ぐらいまで上がっていけていましたし。
−あのGPは体制変更後、中本さんが初めて現場に戻ってきたレース。ひどい結果だったのに、全然不機嫌じゃなかった。「今回がどん底で、これから上がるばかりだ」というコメントが、単なる負け惜しみには聞こえませんでした。
予選ではクルマ自体はそこそこ速かったし、レースペースも悪くなかったですから。「何だ、クルマは悪くないんだ」と思えました。あの時点ではまだ、新しいものは何も入れていなかったんです。極端な言い方をすると、冬のテスト時のタイヤと車体セッティングに戻しただけでした。それでも、悪くはなかった。
−クルマ本来の素性の良さを、再確認したレースだったと。
そうです。この方向性でいいんだから、もっとこっちに進めていこうと確信できました。
−長い遠回りでしたね。
成績が悪い時も、冬のテスト時のタイヤや車体セッティングに戻せばいいんだ、絶対に、と僕は言い続けてきました。正しいと思っていました。だから今の職を任された時は、 そっちの方向をもっと伸ばそうと思って、カナダとUSの現場は休んで、それに沿った新しいパーツ作りや、他のアイデアの吸い上げ、それから、もっと効率良く回るような組織変更などファクトリーでいろいろとやっていたわけです。
そういうのを入れられるようになってきたのが、7月末のドイツからだったんです。そうしたらいきなり、えっ?というぐらい、いい感じになりました。あの時は、最後に ライコネンにやられてしまいましたけれど。ブラジルでの打ち上げの時、ジェンソンも言っていました。「あのドイツからのクルマで、あそこから最終戦までの開発ペースを開幕戦からやっていれば、おれたちはこんなポジションにはいなかったよね」って。
(この項続く)
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