HondaモータースポーツF1ルーベンス・バリチェロ『自らを語る』

 いよいよ2006年F1グランプリ・シーズンが開幕した。今冬はチームもドライバーも非常にあわただしい時間を過ごしたが、新エンジン(2.4リッター・V8)の採用という重要事項があったのだから仕方がないだろう。とにかくシーズン開幕までに新エンジンの信頼性を上げなければならなかったのだから。ホンダ・レーシングF1・チームはこのタスクを見事にこなしたといえる。
 今年からホンダ・レーシングF1・チームに加わったルーベンス・バリチェロは、冬の間のテストに積極的に参加した。新しい職場に勤め始めると、そこに慣れるために誰もが最大の努力をするが、バリチェロも同様だった。今年こそ初勝利とチャンピオン・タイトルを狙うチームメイトのジェンソン・バトンのやる気も、バリチェロにひしひしと伝わってきた。バリチェロ自身はすでにF1グランプリ9勝の実績があるが、それはホンダ・レーシングF1・チームに加わる前のこと。今年は彼にとっても、バトン同様にホンダ・レーシングF1・チームでの初勝利を狙う年である。若い奴には負けられない、という感じだ。
 ところが、3月12日の開幕戦バーレーンGPは、残念な結果に終わった。予選は新しいノックアウト形式で、ライバルが次々と姿を消していく中、バリチェロは最後のピリオドまで残り、予選6番手を獲得した。チームメイトのバトンは3位。決勝レースは波乱含みだったが、バリチェロも同様だった。序盤順調に見えた走りも、途中から3速ギヤが使えなくなり、苦しい戦いになった。スピードは当然上がらず、何とかゴールしたがトップから1周遅れの15位だった。
 第2戦マレーシアも不運から抜け出せなかった。予選は12番手。しかし、予選前にエンジン交換をしており、10番下がってのスタートになった。さらにレースが始まるとストップ・アンド・ゴーのペナルティ。10位完走が精一杯だった。

 2戦が終了して、バリチェロはやや不機嫌だった。
「ギヤのトラブルがなければもう少しプッシュできたはず。クルマは基本的にはポテンシャルを持っていて、十分にトップ・グループで戦えるはず」だと言う。マレーシアGPでは、「ペナルティを受けなければ・・・」と。いずれにせよ、開幕2戦は不満の残るレースだったわけで、早く忘れて次のオーストラリアに向けて全身全霊を集中したい、ということのようだ。

 ところで、今年からホンダ・レーシングF1・チームで走るバリチェロは、一体どんなドライバーなのか。今回から少しずつ彼の正体を明かしていきたい。と言っても、バリチェロが仮面を被ったドライバーだと言うわけではない。彼はインタビューの質問にも懇切丁寧に答えてくれるし、性格は真面目。ブラジル人だといえば、まず陽気で明るいイメージがあるが、バリチェロはそれだけではない。沈思黙考型とでもいおうか。そんな彼が、子どもの頃からどのような生き方をしてきたかを知ることで、現在の彼を応援する手助けになればいいと思う。
 レースは8歳から始め、数々の勝利を挙げるとともにF1グランプリに駆け上がってきた。まずは、そのあたりから聞いてみよう。

 

―― 最初のレースを覚えていますか?
ルーベンス・バリチェロ(以下RB): よく覚えているよ。最初のレースはカート・レース。といっても子供用のミニ・カートで、それをブラジルでは「ゴー・カート」と呼んでいたんだ。2年間練習して、8歳のときにレースに出た。最初のレースは3番からスタートして一時5番手に落ちたけれど、また抜き返して3位でゴールしたんだ。2レース目は2位、それから3レース目は優勝。どんどん速くなった。

―― 本式のレースですか。
RB: そう、本当のレースだよ。

―― 家族は応援してくれたんですか?
RB: いや、最初父は反対した。僕自身まだ小さかったので、レースをするには早すぎると思ったんだろう。「お前はまだ準備が出来ていない」と言われたよ。でも、叔父が大丈夫だと父を説得してレースに出してくれた、というか強引に僕を出したんだ。そのレースで3位に入り、表彰台に上って嬉しくて、父に「いいでしょ?」といったら、まだ駄目だと。

―― 厳しいお父さんですね。
RB: いや、僕がレースをすることに対して反対をしていたんじゃないんだ。一生懸命サポートしてくれていたんだけれど、レースにでるには、十分すぎるほどの準備をしてからじゃないと駄目だと言ったんだ。父はそう思っていんだ。でも、3位に入ってから少しずつ変わってきて、最後には「まあいいだろう」と。

―― それからフォーミュラ・フォードですね。
RB: うん。フォーミュラ・フォードの最初のレースは16歳のときで、ポールポジションからスタートして優勝した。カートのレースから見事な転身だろう。その年のブラジル選手権で4位に入った。

―― カートと比べてフォーミュラ・フォードはどんな感じでした? 本格的な自動車のレースですよね。
RB: 遅かったよ、カートに比べて。運転はとても楽だった。だから、僕にとればカートをやっていたおかげで随分と楽なレースをしたような記憶がある。

―― 16歳はまだ子供だと思いますが、本格的な自動車レースに出るのは構わないと。
RB: だって僕はカート・レースを長くやりすぎたよ。8歳から15歳までだからね。16歳は若いけれど、自動車レースを始めるのに速いという気はしなかった。

―― クルマは?
RB: ブラジルでは結構レースが盛んで、フォーミュラ・フォードはイギリスと同じレイナードを使っていた。

―― フォーミュラ・フォードを始めたのは1989年。すでにアイルトン・セナはF1に乗っていましたよね。
RB: そう、彼はすでにF1に行っていた。さっきも言ったようにブラジルはレースが盛んで、速いドライバーはみんなヨーロッパを目指していた。僕もセナを追ってヨーロッパに渡ってF1に行きたかった。だからフォーミュラ・フォードでも好成績を残すことが重要だったんだ。でも、レースはお金がかかる。活動資金を集めるのは大変だったよ。

―― あなたのレース活動を支えてくれたのは誰ですか?
RB: 父がスポンサーを見つけてくれたんだ。僕は決して裕福な家庭に育ったわけじゃない。父は、カート時代に有り金全部はたいて僕を支援してくれたので、もうお金は持っていなかった。だから僕がレースをするには、父がどこかでお金を見つけてくれなくてはならなかったんだ。それはどこの国でも同じことだろう。

―― あなたは理解のある父親がいて幸せだったということですね。89年、ブラジルでフォーミュラ・フォードを戦って、翌90年にはいよいよヨーロッパに渡ります。そこから先の話は、次回から詳しくお聞きします。
RB: わかった。でも、もっと今の事を聞いてくれよ。僕はF1のことをいろいろと話したいんだ。

 

次号からは、いよいよ彼のF1での話を紹介していきます。
< BACK vol.3 >