HondaモータースポーツF1中嶋悟が鈴鹿サーキットと現役時代を語る

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日本人初のフル参戦F1ドライバーが モータースポーツの聖地鈴鹿サーキットと、自らの現役時代を語る。
  ――中嶋さんは現在も、チームの監督として、また鈴鹿レーシングスクール(SRS)の校長として鈴鹿を訪れています。中嶋さんにとって鈴鹿はどんな存在なのでしょうか?
野球選手やサッカー選手がホームグラウンドを持っているのと同じで、一番身近な、自分の大好きなスポーツを行う場所です。
子どもの頃、鈴鹿は憧れの存在でした。そして19歳になった時に、その鈴鹿でクルマに乗ってレースをし、そこが出発点になった・・・。自分のレーシングドライバーという仕事の中で、一番ぐるぐる回ったコースであることも間違いないですね。だから、その時々の思い出はいろいろとあります。最初は憧れの存在であり、次はレーシングドライバーとしての仕事場、次は思い出の場所・・・ということになります。そして、これからを見つめた場合、新たなチャレンジの場所であるわけです。チャレンジというのは、次世代の世界のトップドライバーの育成に貢献するということです。

――若い人に対して思っていること、伝えたいことはありますか?
自分というものを失わないことですね。いろいろと言われるとは思うけど、最後には自分の信念というものをしっかり持って、立ち向かうべきでしょうね。全てのことに。
僕たちの若い頃は、とにかく「これがしたいんだ!」というのが先で、「職業になるか、ならないか」なんて考えずに突き進む時代でした。世の中の情報があまりなく、自分の思い込みだけの時代でした。「自分が一番得意なこと、自分に嘘をつけないこと、自分が誇れることをやるんだ」と思っていました。「人と比べて自信がある」とかそういうことではなく、自分の中で「俺は自動車の運転では誰にも負けない自信があるから、それをやりたいんだ」という気持ちです。それでサーキットに乗り込んで人と闘う。結論として勝ち負けはあるけれど、「自分の全てをぶつけて闘っている」という自信とか信念はありましたね。
だから「日本人初のF1ドライバーとしての苦労」をよく聞かれますが、自分の好きなことをやっているのだから、「苦労」と思ったことはないんです。
今の若い人はいろんな情報がたくさん入って来ちゃうから、なかなか僕の時代のようにはいかないと思いますが、自分というものを、そしてチャレンジする気持ちを熱く持って欲しいなと思いますね。

――デビュー当時、アイルトン・セナ選手がチームメイトでしたが、彼について印象に残っていることは?
とにかく速いことだけだね。

――ひたすら速かった、と。
それと、俺よりちょっといい男だったかな(笑)。世界に飛び込んで、「本当にすごいやつ」に出会って・・自分のレベルを思い知ったね。でも、これは世界に行かないと分からなかったことですね。

――今でもF1をご覧になると伺いましたが、今年のF1で一番楽しみにしていらっしゃるところはどこですか?
やっぱり、佐藤琢磨選手がいて、日本のチームが闘っていて・・というのが一番ですね。F1とかスポーツを見る観点は「日本」と決めているんですよ。残すグランプリは、鈴鹿と中国しかないけれど、琢磨選手にはいいところを見せてほしいですね。

――B・A・R Hondaのジェンソン・バトン選手と佐藤琢磨選手にメッセージをください。
鈴鹿でいいところを見せてください。頑張ってください。何かをファンに感じさせてください。

――中嶋さんのファンの皆様にもメッセージを。
僕は、Hondaと関わりながらモータースポーツの世界に新たな話題を提供できるように頑張っていきたいと考えています。僕としては、そういう活動の中で、少しでも自分が何かに役立てるのであれば、力を尽くしたいと考えています。世の中に対して、今まで応援してもらった方々に対して恩返しをしていかなければならないと感じています。



 
中嶋悟(なかじま さとる)

1973年の鈴鹿シルバーカップでプロドライバーとしてデビュー。1977年にフォーミュラ・ジャパン1300シリーズに参戦し、全戦ポール・トゥ・ウィンを飾るとともに、全日本F2000選手権でも活躍。その後全日本F2選手権に参戦し、5度のチャンピオンに輝く。1984年、Honda・F1の国内テストドライバーとなり、1987年にロータス・ホンダのドライバーとしてF1にデビュー、日本人初のフルエントリーを果たした。1991年にレーシングドライバーを引退。現在はチーム監督として、フォーミュラ・ニッポンやSuper GTなどのレースに参戦している。
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