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中嶋悟。1973年の鈴鹿シルバーカップで モータースポーツの世界にデビューを果たし、
すぐに日本のトップカテゴリーへと上り詰めた。
1981年よりHondaエンジンを得て全日本F2選手権で王座を重ね、
1987年、ついに日本人初のフル参戦F1ドライバー(キャメル・チーム・ロータス・ホンダ)となる。
同年、F1世界選手権シリーズ全16戦中の第15戦として、
日本グランプリが鈴鹿サーキットを舞台に10年ぶりの復活を果たした。
そして、中嶋は特別の想いがある鈴鹿サーキットに帰ってきたのだ。
復活した日本グランプリで、日本人初のフル参戦F1ドライバーが闘う。
このとき鈴鹿は、かつてない興奮に包まれ、決勝日には約11万人の観客が駆けつけた。
その興奮から4年がたち、1991年にF1からの引退を表明。
中嶋の最後の走りをひと目見ようと、鈴鹿には予選日だけで約12万人、
決勝日には約15万人の大観衆が押し寄せた。
そして、「夢をありがとう」の文字を掲げたスタンドの大観衆に見守られ、
中嶋は、鈴鹿でF1日本グランプリのラストランを行ったのだ。
現在はナカジマ・レーシングの監督を務める中嶋。
自身がこれまで“もっとも多く周回を重ねたサーキット”である鈴鹿サーキットへの想いと
多くの日本人を熱狂させた現役時代などを語った。
――F1ドライバーとして活躍されていた頃、最も印象に残っている日本GPは?
やっぱり最初(1987年)と最後(1991年)かな。
1987年は初めてF1に参戦し、ブラジルからはじまって、約1年間世界中を回って来て、ほとんど最後に久しぶりの日本、久しぶりの鈴鹿へ帰ってきたわけです。今まで自分が全日本F2選手権などで参戦していたのとは景色が全然違うし、はじめてF1グランプリの一員として来たという、特別の感慨がありましたね。ファンの熱い声援があり、いろんな人から声をかけられ、「頑張りたい」「いいところを見せたい」と思って、全身にパワーがみなぎりました。
1991年の最後の日本グランプリは、たくさんの人が応援に駆けつけてくれて、特別に心に残っています。
――中嶋さんの現役時代、毎年10万人以上の観客が中嶋さんを応援するために、鈴鹿を訪れました。
そうですね・・年々盛り上がっていきましたね。僕は1年間ほとんど日本にいないから自覚がなかったので、驚きました。特に最後の年は僕がF1を引退することが皆さんにわかっていたこともあり、ウェーブができるくらい応援してくれたことが印象に残っています。あれほど「日の丸」を感じたことは生涯なかったですね。
――プレッシャーというよりも、感動の方が大きかったですか?
もちろんプレッシャーがないわけじゃないけど、スポーツ選手はいつもそれがないと、闘っている感じがしないわけで、プレッシャーはもう体にしみついた当たり前の感覚なんです。それよりも、自分をこれほど応援してくれる人がいるんだという感動の方が大きかった。ただ、「いいとこ見せたいな」と思いながら、なかなか見せられない辛さはありましたね。
――あの頃、日本中が中嶋さんを応援していました。
あの頃は、スポーツも含めてあらゆるジャンルで、日本という国が世界を目指していた時期でした。そういう時代風景の中で、日本人である私が世界にチャレンジしている姿に、応援してくれている皆が、自らの想いを重ね合わせてくれていたんだと、今では思いますね。自分としては、世界で自分はどうなのかということを確かめたかっただけでしたし、自分は楽しんでいただけなんですが。
――鈴鹿で走ることは、海外のサーキットを走るのと違いましたか?
やっぱり違いますね。でも、選手の当時はつっぱってたから、「どこも同じ」と言うような顔をしていたと思います(笑)。 それはある種の照れ隠しなんですが。母国グランプリですから、サーキットの半分以上の人が自分を応援してくれてると思い込んでるし、いいとこ見せたいじゃないですか。もう全然重みが違う。だけどつっぱってる。現役の選手はみんなそう。自分もそうでした。
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