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「まず、僕が最初に生でF1を見たのが鈴鹿サーキットだったということ。その同じサーキットを自分が走れるんですから、すごく嬉しかったですよね。しかも、当時は第2期Honda F1が全盛で、憧れのアイルトン・セナもHondaエンジンで走っていたので、Hondaには特に親近感を覚えていました。そのHondaと鈴鹿が共同で運営していたのがSRS-Fだったのですから、僕には夢のような環境だったのです」 そうした夢のような環境で、彼の才能は一気に開花した。琢磨はSRS-Fの最優秀ドライバーに選ばれ、翌年の全日本F3選手権参戦のチケットを手に入れる。そこからさらに渡英してエントリー・フォーミュラで実績を残し、2000年にはイギリスF3選手権にステップアップ、2年目の2001年に日本人として初のイギリスF3チャンピオンに輝いたことは記憶に新しいところだ。 同じ2001年にはB・A・R Hondaの若手ドライバー育成プログラムに参加し、F1マシーンのテストにも携わるようになる。さらに、翌2002年にはジョーダンHondaからのF1デビューが決定、最終戦の鈴鹿ではトップチームに伍して5位入賞を果たし、15万人を超す大観衆を魅了したのである。それは、琢磨が19歳でカートレースを始めてから、わずか6年目の快挙だった。 2003年、敢えてジョーダンを離れた琢磨はテストドライバー兼サードドライバーとしてB・A・R Hondaに再加入、新たなスタートを切った。 結果的に彼が所属したF1チームはHondaユーザーばかりとなったが、ジョーダンとB・A・Rというふたつのチームを琢磨自身はどのような視点で捉えているのだろうか? 「2001年のB・A・R Hondaについていえば、あれは若手ドライバー育成プログラムの一環で、そのメンバーとして選ばれるときに僕はチームが行なったオーディションに参加しているんです。そしてこのオーディションで僕は前年のイギリスF3チャンピオンを破っているのですから、いわば実力でテストドライバーの座を勝ち取ったことになります。いっぽうのジョーダンは、オーナーのエディー・ジョーダンがずっとイギリスF3に注目していて、そこで活躍していた僕にチャンスを与えてくれたんです。そういう意味からいうと、B・A・R Hondaと僕の結びつきはきちんとステップを踏んだ公式なものだといえるし、いっぽうのジョーダンとの関係は、エディー・ジョーダンという個人との結びつきから生まれたものだといえるかもしれません」
「去年までは2チーム分のデータがあっても、ある種の紳士協定のようなものがあって、相手チームのデータは基本的に見ないという方針だったそうです。技術者の皆さんにとってはフラストレーションが溜まる原因となったはずですが、今年は一本化されたことで、エンジニアも1チームに集中できるようになった。これは間違いなく前進だと思います。それと同時に、Hondaはエンジンだけじゃなくて、ギアボックスやサスペンション、それに空力などに関しても、今まで以上に積極的に関わるようになりました。おかげでB・A・Rのファクトリーで働いているHondaのエンジニアも、ものすごい数になっています。そういう意味では、HondaとB・A・Rは共同開発を行なっているんだと思うし、ニューモデルの005はもちろんテクニカルディレクターのジェフ・ウィリスの功績なんだけれど、Hondaのコミットメントも大きかったはずなんです」 そうしたB・A・RとHondaの緊密な開発体制のなかにあって、日本で生まれてイギリスでレースキャリアを築いた琢磨がサードドライバーとしてステアリングを握る。まるで絵に描いたような構図が、そこに存在しているといえるだろう。 「まあ、僕はとにかく、今年はクルマの開発に専念します。自分に与えられた仕事を一生懸命こなす。すべては、そこから始まるはずです」 琢磨の夢と、われわれ日本人の夢を乗せたHonda F1は、未来に向かって猛スピードで疾走している。(終り) |
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