Honda Racing to TOP
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 ジェンソンはベネトン・ルノーで戦った2001年と2002年の2シーズンにつらい経験をし、人生で初めてと言っていい挫折を味わった。そして今はその2年間のことを忘れてしまいたいと思っている。ベネトンの総帥フラヴィオ・ブリアトーレのもとでの2年間は決して幸せではなかったし、失望的な結果に終った。2001年は同僚のジャンカルロ・フィジケラより遅いレースが続いた。しかしそれは彼が遅くなったからではない。我々が一度覚えた自転車の乗り方を忘れないように、ことレーシングカーを速く走らせることをジェンソンは決して忘れない。
 苦闘の連続であったその2年間は彼に忍耐とチームとは何かを教えた。F1では、ファクトリーでマシンを仕上げるメンバーも、パドック・クルー同様レースを勝つためには大切な仲間なんだということ、全員の心がひとつにならなければ勝てないんだということを身を持って学んだ。だからこそジェンソンがB・A・R Hondaの一員として最初にやったことも、その2年間に学んだことに基づいたものだった。
 2002年F1シーズンを終えたある日、ジェンソンは疲れもみせず新幹線に飛び乗り、Hondaの栃木研究所を訪ねた。スター・ドライバーの突然の訪問にびっくりさせられたF1エンジンの研究開発をするスタッフは、ジェンソンの飾らない人柄と天性の人懐こさにいつのまにか魅了され、短い訪問の間に彼を仲間として歓迎し受け入れた。貴重なプライベートな時間を割いての訪問であったが、ここにも彼の真面目さとひたむきな性格がよくあらわれていると思う。
 ジェンソンはHondaの2003年F1シーズン用エンジンをつぶさに見たあと、ツインリンクもてぎに移動、Honda栄光の歴史が展示されたコレクション・ホールも見学した。ちょっとした楽しみはそのあとに待っていた。2.4キロのオーバルコース上に新しいNSX-Rが彼のために用意され、待っていたのだ。NSX-Rに躊躇なく乗り込み、コースを瞬く間に理解、数ラップ後には生れて初めてドライブしたというオーバルコースを楽しむかのように、ジェンソンはクルマをコントロールしつつ270km/h近いペースで周回していた。
 「オールージュ(危険なことで有名なベルギーのスパフランコルシャン・サーキットの名物コーナー)より数十倍も恐かった」とジェンソンは笑った。NSX-Rの助手席にはHondaのF1車体技術開発責任者、橋本 健も座った。「ジェンソンはとても楽しそうだったよ」と言ったあと、橋本はジェンソンについて次のように述べた。「強烈に印象に残ったのは彼が苦もなくスピードを自分のものにしてしまう才能かな。あれは持って生れたものだね。それよりも彼がここを訪ねてきてくれた意義のほうが大きいね、みんな感激してたよ」
 ジェンソンのレーシング・キャリアを知ってさえいれば彼の順応性の高さは驚くほどのことではない。彼は試練を与えられるたびにそれを難なく乗り越え、才能を証明し続けている。限界でのドライビングは彼にとっては難しいことではない。思い悩んだり、そのために特別な練習をすることを必要としない、自然に備わった才能である。たとえ新しいレーストラックであっても、5周する間にはマスターしてしまい、1レース分の長さであってもそのままのペースでドライビングを続けることができる。
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フッタ
HONDA F1