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はじめに 佐野教授の「60's Honda F1物語」
佐野教授の「60's Honda F1物語」にようこそ!
私は、佐野さんにお話を伺う高木理恵です。
F1が大好きで、テレビ放映はここ数年、欠かさず見ているのですが、
最近、Hondaが1960年代にF1で活躍していたことを知り、
ザワザワと好奇心が騒ぎはじめました。

1960年代のF1シーン……、
限られた素材や機材でどんなマシンが作られていたのか?
どんなテストが行なわれていたのか? と、分からないことだらけ。
そんな私に佐野さんはいろいろ教えてくれました。

実は、「60年代のF1マシンの車体設計をしていた方」と聞いて、
厳しくて怖いおじ様を想像していたのですが、全然、違いました。
単純な質問にも、優しく、解りやすく答えてくれました。
そして、お話から当時のエネルギーも伝わってきました。
佐野彰一 佐野彰一
1937年東京に生まれる。東京大学航空学科を卒業して僅か4年目、26歳の時、突然、F1のボディ設計を命じられる。Hondaは、1964年に始まる第一期F1を、ロータスにエンジンを供給するエンジンサプライヤーとして戦う予定だったが、そのシーズンが始まる1964年1月に、ロータスから“エンジンは他社製を使う。悪しからず”との電報が届き、急遽、自社製シャシーを作らなければならなくなった。

急ごしらえで仕上げたRA271は、重く、整備性も悪かったが、徐々に熟成を進め、翌1965年の最終戦、1,500cc最後のメキシコGPで念願の初勝利を飾った。

その経験を生かし、1967年にはイタリアGPでデビュー優勝を飾るRA300の足周りを設計、さらに1968年には、先進的なアイデアを盛り込んだ空冷のRA302のテクニカルディレクターを務めた。1968年までF1を戦った後は、1300クーペのプロジェクトリーダー、4WSやASV(先進安全自動車)の研究開発を行なう。

Hondaを退社した現在は、東京電機大学で自動車工学の教鞭をとっている。Hondaの第二期F1時代、ウイリアムズにアドバイスして、リヤサスペンションの問題を解決、連勝への足がかりとしたことも。

温和な人柄とは裏腹に、毅然とした自信を持つ生粋のエンジニアである。
高木理恵 高木理恵
私、高木理恵は1970年、1月22日にこの世に誕生し、5歳から14歳までの間カナダ、バンクーバーで育ち、のんびりとした大人になりました。“ミュージックスクエア”(NHK-FM)、“ドライブ A-GOGO!”(テレビ東京)などで、ラジオDJのお仕事をしていますが、レースに行きたいので土日は仕事を入れないようにしているほどのモータースポーツファンです。

読売新聞社のカーサイト@carsで試乗インプレッションもやってますが、サーキットで感じる喜怒哀楽にすっかりはまってしまい、今じゃもう、レースなしの人生なんて考えられません。

佐野さんとお会いして、よりいっそうモータースポーツが好きになりました!
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