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さらば60年代 佐野教授の「60's Honda F1物語」

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さまざまなドラマを残した第一期ホンダF1は、1968年11月3日のメキシコGPを最後に、その幕を閉じた。
終章・さらばF1、さらば60年代
(佐野彰一×高木理恵) 

すごい勢いで始まったHondaF1計画は、1968年に終幕を迎える。その時の佐野さん、そしてHondaは、どんな空気に包まれていたのだろう?

――HondaがF1から撤退すると決めたときって、佐野さんはまだ31歳ですよね! でも、その若さでというか、すでにかなりの技術を身に付けておられたと思うんですけど?

「ローラで最新レベルのクルマの作りかたを勉強したし、テレメーターで、どれくらい荷重がかかるかということも、調べてわかっていました。
それから材料の使い方も合理的になっていて、目標を大幅に下回っての軽量化ができていた。だから、それを元に戻して、強度の余裕を取るようなこともやっていた。
一応これで、クルマを作る技術が一通り備わったんではないかなという自信は出てきていましたね」


――でしたら、これから最強のマシンを作れるのに〜と、撤退については、悔しい気持ちもあったのでは?

「ま、終わりが始めだったら、本当は一番いいんですけどね。そんな感じで終わったというのは、たしかに唐突ではありました。
ただ、私はやはりレースのプレッシャーがあったり、日程的にも辛かったりというのがあって、やめるというのは、ちょっとホッとしたところもありました(笑)」


――撤退するときには、社内ではどんな宣言があったのですか?

「いや、とくにはっきり宣言されたということはなくて……。うちの仕事の進め方って、ずーっとそんな感じで(笑)」

――何となく、という感じ?(笑)

「区切りがしっかりしているという感じはなかったですね。次の仕事は指示されたけど、後始末をしろと言われた記憶もないし……。
普通、職場が変わったりすると、今までのことを整理してとか言われるでしょう? でも、Hondaって、そういう報告書とか記録を整理しても、取っておくところがないんですよ」


――ということは、何も残っていないのですか!?

「記録をきちんと残すというのは、Hondaの文化じゃない(笑)。Hondaの文化ってね、やりっぱなしなんですよ。だから、後になって、昔のことがわからなくて困っちゃうのね(笑)」

――すごいな〜、Honda!(笑)

「そもそも、本田(宗一郎)さんの仕事のスタイルに、そういうことがなかったから。
とにかく現場での勉強で、それを人に“染み込ませる”ということで、ずっと続いてきた会社だと思う。文章とかそういうものを通じて伝えるんじゃなく、現場でやりあって、それぞれの記憶の中に入っていって、体験として勉強していく。そんな会社だった」


――それでは、常に自発的に勉強しないと置いていかれちゃいますね!

「そうなんですよ。だけど、同じようなことをいろんなチームが調べていて、『何だ、お前んとこもやってたんだ?』というようなことも、実はよくある(笑)」

――それが、Hondaの文化!(笑)

「ええ。昔は、机に向ってもの(文章)を書いていること自体、白い目で見られましたからね。とにかく、ブツをいじっていないと、仕事をしていることにならない(笑)。
設計だったら、図面をひいていれば仕事をしていることにはなるけど、机に向って何か書いてると、何やっているんだって(笑)。そういう雰囲気の会社でした
ただ、F1の先達で私をかわいがってくれた中村良夫さんは、すべてのレースで、報告書を残していましたね。で、私にもコピーを1部くれました。その中には、インディアナポリスを走った時のレポートもあって……。
こうしてお話をするようになるとあの頃にわかっていれば、私も少しは記録を残しておいたんだけど(笑)」


――わー、いつかそれ、ぜひ拝見したいですね。

「でも、Hondaって、そういう意味では効率悪いんですよ。というのは、(過去の記録がないから)何かやる時に、いつもゼロから始めないといけないでしょ。
だから、まだ“合理化”の余地はいっぱいあってね(笑)。だって、すごいムダをしているから。
でも一方で、この『ムダ』がHondaの財産になっているとも思う」


――だからこそ、新しい、おもしろい発想が出てくるのかもしれませんね。

「後からの人を縛らない、変な先入観はない。だから、みんなが自由にやれる」

――佐野さん、F1という仕事が終わって、ちょっとは淋しかったですか?

「いや〜、あまりそういう感じはなかった。なんかね、海に行って、大波かぶってジタバタして、それで波がスッと消え去ってホッとしたとか(笑)そんな感じだったですね。ま、当時は、何をやってもそういう風に大変ではあったんですけど」

――佐野さんとしても、ずっと“走りつづけた”数年間だったような……?

「私は、ルーティーンワークがすごく嫌いだし、しこしこ決められたことをやっていると退屈して飽きちゃって、たぶん失敗なんかしたと思うのね。だから、F1は、自分には向いていたかな?(笑)大変だったけど、この会社に入って、若いうちにそんな仕事にめぐり合えたのはよかったと思いますね」

――F1の後は、何をされたんですか?

「まずは、H1300クーペかな? あれの、いまで言うところのPL(プロジェクト・リーダー)をやれって言われて……。それでまた“お父さん”(本田宗一郎さん)とのお付き合いが始まった。これは、F1より辛かったな(笑)」

――その後、またF1をやりたいと思われたことは?

「未練はなかったです。会社も、レースをやる雰囲気じゃなかったし。私自身も、そういうことは考えませんでした。
エンジン屋さんはやりたかったみたいですけどね。車体屋さんは、言われたらやるけど……という感じで。もともと、縁の下の力持ちと思っていますから」


――じゃ、60年代以降ではF1にはかかわっていないのですか? そうだったら、それはちょっともったいないような……?

「第2期F1のとき、川本さん(4代目社長)に、ちょっと見てきてくれと言われて、85年のオーストリアGPに行きました。エンジンはいいのに、まったく勝てない。だから、車体を見てきてほしいということで。
で、オーストリアでウィリアムズのマシンを見て、あ、これは後ろのサスペンションが悪いなとすぐわかって……」


――さすが佐野さん! カッコいいです! サスペンションはそんなに悪かったのですか?

「フロントのサスペンションはアームが長くて、アライメント変化が少ない。リアは、エンジンもあるから短くして、それはまあ仕方がないんですけど、バネを硬くすることで対応していた。だから、前後のサスペンションのバランスがよくない。
でも、シーズンも残りわずかでね。ウィリアムズは、いまさら変えたくないなんて言っていた。だから、Hondaがお金を出して、リアのサスペンションをようやく変えたんですが、それから3勝して、翌年はコンストラクターズ・チャンピオンになった。
85年のウィリアムズのマシンを見れば、前半と後半でサスペンションが変わっているのがわかると思います」


60年代のHondaF1チャレンジは5年で幕を下ろした。が、それはスタートであり、いまだにHondaの挑戦は続いている。現場で勉強し、常にゼロから始めるというパワーは、いまでも健在であろう。
佐野さんのお話をうかがっていて、ごく最近にF1にはまった私は、よりフォーミュラ・ワンという世界をリスペクトするようになりました。
パイオニアの方々が築きあげた、こうした素晴らしい財産が、これからも、ひとりでも多くの人に語り継がれていくよう願っています。

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