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さらば60年代 佐野教授の「60's Honda F1物語」

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1968年7月、急遽参戦することになったフランスGPのプラクティス。コクピットのシュレッサーの左は、通訳を介してセッティングを試みる後の3代目社長の久米是志エンジニア。
悲しみのルーアン
(佐野彰一×高木理恵) 

1968年、フランスGP。
Hondaは水冷エンジンを載せたRA301、そして、空冷エンジンを載せたRA302の2台を走らせた。301は2位でフィニッシュしたが、302には悲劇が起きた。レース開始後間もなく、クルマは炎上。ドライバーのシュレッサー選手が命を落としてしまったのである。

――この年のフランス・グランプリは、どのサーキットだったのですか?

「ルーアンです。たしか、七夕の日だったんじゃないかな」

――そんなアクシデントが起きてしまったのは、路面はドライではなかったから?

「ちょうど、雨が降り始めてね。濡れてはいるけど、完全にはウエットになっていないという状態。走り出してから、ポツポツ降り始めたんですね。そして、2周目くらいだった」

――佐野さんは、ピットにいらしたんですか?

「そうです。すごい黒い雲が上がっていてね。あ、誰かが事故をやったなと言っていましたけど、最初は、それがまさかうちのクルマだとは思わなかった」

――あぁ、それがHondaのマシンだったんですね……。

「誰かが『来ない!』って言ったんですよ。つまり、戻ってきてないのは、うちのクルマだった」

――なんだか、たまらないですね、辛そうな状況……。

「……ただね、まず最初に思ったのは、(原因は)車体じゃないだろうなということでした。というのは、このとき、車体に関しては強い自信がありましたので……。 テレメーターでの解析をやって、軽量化を一生懸命やったでしょう。でも、最後には軽くなりすぎたから、元に戻している。そういう経緯もあったので、これは、足回りが壊れたりなんかして起こった事故ではない、という信念だけはあった。 もちろん、声を出してそんなことは言いませんが、心の中ではそう思っていました」

――ピットから見ていて、状況はつかめたのですか?

「いや、ピットからだと、大きな黒い雲しか見えなかった。かなりの事故だなということだけはわかったんですが、そのほかの情報は何もなかった」

――で、事故の原因は分ったのでしょうか?

「ひとつ言われているのは、(シート)位置が前すぎるから、コントロールがうまくできなかったのでは……という説ですね。
いまのF1マシンのシート位置は前にあって、もうそれがスタンダードになってますが、当時はそうじゃなかった。この空冷302は、ほかのマシンに比べると、後ろにタンクを置いた分だけ、シートが前に出ちゃったんです」


――悲劇の現場の調査は?

「残骸が落ちているところの写真は撮ったんですよ、パーツがちらばっていてね……。それを見て、やっぱり足回りが壊れていないということはわかったんですが」

――原因は、やっぱり謎のまま?

「土手があって、クルマがそこをよじ登って燃えてしまったんですけど、マシンの周辺に足回りの部品が少し、パラパラとありました。その写真を撮ったりしましたが、原因はわからなかった」

――でも、お話を伺っているだけで、私にとっても、このフランスは、とっても悲しいグランプリになってしまいました……。

「そうですね……。やっぱり、ちょっと不規則なというか、変則的なかたちで、この(フランスでの)レースには出ましたから……。
F1というレベルのレースに出場するには、完全な準備が必要なんだ、ということがよくわかりましたね。もっと時間をかけて、じっくりやるべきだったと思いました」


高いレベルで戦っているF1では、栄光と危険は背中合わせ。そして私たちもまた、そのギリギリのところで勝負しているチームやドライバーに魅了される。
もちろん、不幸な事故など起こって欲しくないが、現実的に考えると、常に危険は潜んでいる。それを目の前で見た、当時のHondaスタッフ……。悔しさと悲しさで、言葉も出なかったと思います。
あらゆる面で完全な準備で挑まないと、F1は時には牙を剥くことがあるのです。お話をうかがいながら、そのことが、痛いほどに伝わってきます。

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