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デビューのフランスGPの1ヵ月後、サーティースの手で真夏の鈴鹿でテストを行なうRA302。その後、画期的な空冷F1は、9月のイタリアGPの予選に姿を見せたが、最後までオーバーヒートの問題に悩まされつづけた。
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(佐野彰一×高木理恵) |
1968年、Hondaは新しい挑戦を行なった。それは、空冷エンジンを載せたマシンでのF1参戦だった。そして佐野さんが、この空冷マシン・RA302の設計者に指名された。
――佐野さんが、空冷でやるという決断をお知りになったのはいつ頃だったのでしょう?
「イギリスにいた頃ですね。68年の8月に、イギリスのローラ社でRA300をやっていた頃、三代目社長のになる久米さんから、空冷でやる、という話を聞いたんだと思います」
――空冷の話を聞いたときのご感想は?
「いやあ、私はダメだなと思ったんだけど(笑)」
――それはまた、クールなご意見ですね!(笑)
「でも、やりたくなかったとか抵抗があったとか、そういうのではないですよ。要するに、空冷のエンジンを積んで、そしてそれをちゃんと冷却できる。そういうクルマを、きちんとまとめる。これはおもしろいと思った。まったく新しい仕事ですからね。
あと、正直言うと、(車体屋としては)エンジンはどうでもいいやという気持ちもあったかな?(笑)」
――新しいチャレンジに燃えた?
「はい、私はね、新しいことをやるのが大好きなんです!先人がやったことを同じようにやっても、先人とくらべられるだけでしょ。でも、最初にやった場合はくらべられない(笑)。自由にやれるし」
――でも、その分、プレッシャーもあったのでは?
「いや、人がやったことがないことをするのが、とにかく好き!(笑)」
――サスガでございます! で、大好きといえば、本田(宗一郎)さんが空冷にほれ込んでいたというのがありますよね?
「ああ、そうですね。本田さんが空冷に凝り固まっていて、空冷が好きだから無茶なことを命令したんだという見方をされる方も少なくないようですが……」
――真相はそうじゃないんですか?
「本田さんが(空冷でやるという)決断をするまでの、思考の過程を推測してみますとね。やっぱり、それまでずっと重量で苦労させてきたというのが、まずあったと思うんですよ。そして、軽いクルマが作れないというのは、本田さんにとっても不名誉なことだった。そういうことも、内心あったんじゃないかな?
それで、本格的な軽量化なら、チマチマと各部の重量を軽くするというのじゃなく、もっと画期的な方法があるのではないか? こういう本田さんなりの発想というのがあったと思う。市販車では空冷のクルマだってあるんだし、レーシングマシンでもそれができないはずはない、と――。
だから、(空冷化での)最大のテーマは軽量化でした。ただ、軽くするためにF1マシンを空冷にするんだと、本田さんご自身が発言されたことはありませんけど」
――その空冷エンジンを載せたマシンが、フランスでデビューしますね。
「ええ。で、ギリギリの状態でエントリーしたものだから、まずは(空冷マシンのチームの)パドックもなくて、仕方がないんで、広場に綱張ってね。そこでいろいろやっていたんです。まあ正規の場所のパドックは、本番レースの時にはもらえたんですけど」
――予選は、何位くらいだったのですか?
「予選は……? うーん、まともに走ったかな? あ、2周か3周くらいは走りましたね。でも、ビリでしたが」
――あらら!?
「その予選のときに、自分のクルマからか他のクルマからかわからないけど、車体にオイルがついてね。それが、カウルに流線を描いていて、あまりにもキレイで見とれていたら、久米さん(RA302チームの監督)に、『なに、モタモタしているんだ!』って怒られてしまいましたけど(笑)。
でもね、予選をもっと走っていたら、あんな事故は起きなかったかもしれないな……」
新しい時代を感じさせる空冷エンジン。これを載せたRA302は、こうしてフランスGPに登場します。そして、そのフランスで悲劇は起きました。
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