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Hondaの挑戦がはじまった! 佐野教授の「60's Honda F1物語」

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1968年4月の鈴鹿サーキット。複雑な排気管の向こう、脇に立つメカニックの左側にアンテナが、ホンダが世界に先駆けてトライしたテレメータリングの証明。収集したデータをこのアンテナから、ピット脇のワゴン車の中の受信装置に走行中のデータを送った。
鈴鹿/テレメーター/サーティース
(佐野彰一×高木理恵) 

1967年が終わろうとしていたころ、佐野さんはRA302の設計・製作に入っていました。
さまざまなテストが行なわれていたなかで、佐野さんにとっての一番のテーマはマシンの軽量化でした。
でも、強度を考えながら、どの部分なら軽くしてもいいかということを正確に知るためには、テストと確認が必要でした。そこで、佐野さんは、走行中のマシンから情報を通信で送る「テレメーター」を使って、車体にかかる負担を確認することにしたのです。
しかし、時は60年代です。テレメーターみたいなハイテクなものなんて、いったいどこにあったのでしょう? 実は、当時の超・新技術であるこのテレメーター・システムは、すでにHondaの2輪レースでは使われていたのだそうです! あらためて、Hondaというメーカーのレースにかける真剣さにびっくり!
そのテレメーターのテストは鈴鹿サーキットで行われたのですが、そのために、ジョン・サーティース選手を日本に呼び寄せました。

――サーティース選手がテストのために日本に来たのは、この時が初めてだったのですか?

「えーと、RA273に彼が初めて乗ったのは、南アフリカだったのかな? ということは、その前に一度だけ日本に来ていたかもしれませんね」

――じゃ、レアケースだったということですね。いいかえると、鈴鹿のテストでは、どうしても彼が必要だった?

「ええ。きびしい運転をしなかったら、レースのデータは取れない。とはいっても当時は、いわゆるテスト・ドライバーもいなかった。ということで、彼に特別に来てもらったわけです。
そうはいっても、クルマを開発するためのテストというほどのものではなくて、ちょっとデータを取るためだけのテストだったから……」


――そのために、わざわざ日本へ?

「そうなんですよ。彼としては、大サービスだったんでしょうね。だって、チャンピオン・ドライバーがやるような仕事じゃないですもの(笑)」

――でも、彼はやってくれた?

「だから、中村さん(Honda F1チーム・マネージャー中村良夫氏)が相当気をつかっていたのかもしれない。私はもっといろんなテストをしたいと言ったんだけど、適当なところで、切り上げられちゃった記憶があります。(チャンピオンに)あんまり雑用をやらせるな、ということだったんでしょう(笑)」

――サーティースさんは、いい人なんですね?(笑)

「そうです、彼はいろんなことに気を使ってくれる、とってもいい人(笑)。 そうだ、イギリスでも、私がひとりでいる時に、淋しくないかと心配してくれてね。家に招待してくれたことがありました。いやあ、でも、それが実は大変だったんだけど(笑)」

――え!? いったい何が……!?

「彼はミニ・クーパーに乗っていた。そして、ぼくに、家までついて来いって言うんですよ。彼の家は南の方のかなり離れたところにあったんですが、イギリスの道にはロータリーやら何やらいっぱいあるでしょう、だから、ついて行くのが大変で……!」

――チャンピオンのドラテクはすごかったんですね!

「こっちは、もう必死(笑)。彼としては、あれでも気をつかって、ゆっくり走ってくれたんだろうけど。でも、ロンドンからのあの距離を、ずっと遅れないでついていったことは、誇ってもいい……かな?(笑)」

――そんな気づかいの人だから、鈴鹿のテストにも来てくれたんでしょうね?

「まあ空冷のクルマを作るためのデータ取りということで、彼としては、水冷のクルマでレースに勝ちたかったはずなので、内心おもしろくなかったと思う。でも、中村さん(良夫氏=当時のチームマネージャー)が一生懸命お願いしたのか、ともかくテストはやってくれました。
私は、テレメーターでのテストをやらない限り、クルマを軽く作ることはできないと、ずっと中村さんにお願いしていた」


――それが聞き入れられたんですね。

「そうです。彼は間に入っていたので、辛かったかもしれないですけどね。中村さんにとっては、空冷は“敵”みたいな感じもあったから……」

――え!? なぜですか?

「中村さんは、空冷にあまり賛成していませんでした。でも、開発はやってくれたし、サーティースも呼んでテストしてくれたし……。ようやく私を、設計者として認めてくれたんじゃないでしょうか?」

当時は、今日のようなテスト・ドライバーが存在していなかったこともあり、こういった一人一人の協力でF1マシンは開発されていった。システムとして完璧でなかった部分もあって、不便さもあったとは思いますが、でも、こうした人間同士のぬくもりが絆を深めていたのかもしれませんね。

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