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Hondaの挑戦がはじまった! 佐野教授の「60's Honda F1物語」
ギンサーとサーティース
(佐野彰一×高木理恵)
車体やエンジンを作るスタッフはもちろんだが、ドライバーもまた、マシン作りに貢献している。 コンピュータでいろんなことが解る2001年のF1に比べると、60年代のF1シーンでは、ドライバーの感性や開発能力は、いまよりもっと必要とされていたのかもしれない。

――では、当時Hondaに乗っていたドライバーたちは、どうだったのでしょうか?

「鈴鹿で273のテストをやったことがあるんですが,サスペンションの具合が悪いということで、設計変更したんですよ。多少トーイン変化が多くなったんだけど、ステアリング系まで修正する時間的な余裕がなくて、ま、大丈夫だろうと、そのままモンツァにマシンを送ったんです。でもね、さすが、レーシングドライバーでしたね(笑)」

――え、え、どういうことですか?
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ギンサー(左から4人目)とバックナムを中心に記念撮影。ギンサーの細かい注文には、ホトホト参った佐野さんだった。
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2輪のチャンピオンを奪った後にF1入り、フェラーリでワールドチャンピオンになったサーティース(左)。Hondaのよきアドバイザーとして1967年イタリアGP勝利の立役者となった。
「向こうで走ったギンサーが、こんなトーイン変化のあるクルマは乗れないって、怒っちゃいまして……。 ま、徹夜で部品を作って送ったら、今度は走れるようになったからよかったんですけどね」

――リッチー・ギンサーは細かい変化に敏感だったんですか?

「ウーン、というより……。あの、ギンサーはサーティ―スに比べると、言っていることがよくわからなかったですね。クルマが悪いのか、自分の腕が悪いからクルマのせいにしているのか、そのへんがわからなくて……。ですから、サーティ―スになって、すっきりしましたね」

――ということは、リッチー・ギンサーの方が、何かと注文が多かった?

「そう、たとえばサスペンションのバネを、ほんのちょっとずつ硬さが違うものを揃えろというのね、ギンサーの場合。だから、もう大変で。うちの(部品の)補給部隊は、大きなケースの中に部品をいっぱい入れて、トラック2台で、レースごとについて行った」

――トラック2台分ですか! 中に入っていたのは何だったんでしょう?

「フロントのバネ、リアのバネ、そして、スタビの太いの細いのが何種類も……(笑)。それで、ドライバーがああだこうだ言うと、すかさず、バネを交換するわけです。ギンサーは非常に(指示が)細かくて、例えば、5%飛びくらいでバネの硬さが変わるようなものを用意させていた。だから、バネだけでもすごく場所をとって、そしてついでにおカネもかかって、とっても大変だった(笑)。

でも、(ドライバーが)サーティースになってからは違いましたね。彼は、そんなに違いの少ないものは意味がないから、30%強いのと、30%弱いのを用意してくれれば、それでいいと言ってくれて――。なるほどな、と思いました。ギンサーは、チマチマと換えてたけど、あれは本人もあまりわかっていなかったんじゃないかなあ(笑)」


さすが、チームスタッフならではの一言!
Hondaに2勝をもたらしたふたりのドライバー、リッチー・ギンサーとジョン・サーティース。彼らの意見は何より重要だけど、でも、納得できないことを言われるとチームの一人として、すっきりしない。ふむ。Hondaが初めてF1に参戦した頃でも、いまのF1でも、これは実はあまり変わっていない……かも?
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