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22.ロータスとホンダ

 0.3秒差でポールポジションはBRMのグラハム・ヒルに取られたが、パワーに物を言わせて直線でタイムをかせいだ我らのギンサーは、ロータスのジム・クラークと同タイムの2位でオランダGPの最前列に並んだ。
 そのスタート前の事だった。ロータスのオーナーでイギリスのスポーツマン貴族を絵に描いた様にスマートなコーリン・チャップマンが腕組みをして、ずんぐりした我々のF1をためつすがめつ眺めていた。いかにも「ロータスとは、サラブレッドと道産子ほども違う、こんな車で良くあんなタイムが出せるもんだ」とでも言いたげだった。
 彼は一時期、ホンダのエンジンを使いたいと言ったこともあって、私はエンジンの外形図を描いて送った事もあったが、最近はほとんど関心を示さなくなっていた。
 結局レースはロータスのクラークがまた優勝、ギンサーは6位に終わった。クラークはモナコのGPと同じ日に行われたアメリカのインディ500に出場し、各周回ごとのトップに賞金が懸かった200周のレースの190周をトップで走って優勝した。そこで20万ドルを稼いだクラークは、モナコには出走しなかった。そのモナコGPを除いて出場したF1レースは全て優勝し、5連勝だった。そして1965年度チャンピオンにもなったロータスは、ヨーロッパのレース場で貴族の様な存在だった。

 このレースを最後に帰国した私は、それから長い間ヨーロッパを訪れる機会はなかったが、1989年に6年間のアメリカ駐在を終えて帰国した後「我々の新しい技術を見に来て欲しい」というヨーロッパの会社に招かれて、イタリア、スイス、オーストリア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリスと再びヨーロッパの旅を重ねる事になった。
 新しい技術を開発しているイギリスの会社で、
「私たちの技術を是非ホンダで使ってほしい。ヨーロッパやアメリカの会社で使ってもらっても、ハクは付かない。日本のメーカーに使われてこそ世界に認められる」
と、24年前にF1で来た時には畏敬と羨望の眼差で眺めていた誇り高いヨーロッパの技術者に言われて、ほっぺたをつねってみたくなった。

 そんな折、アメリカでユダヤ人に言われた強烈な言葉を思い出した。日本の技術や経済力がようやくアメリカでも少し認められ始めた1983年、ロスアンジェルスに赴任して、娘の中学校のPTAに初めて出席した時のことだった。コーヒーとクッキーが置いてあるテーブルの向うに座っていた痩身の紳士に、
「あなたは日本人ですか」
と問われた。
「そうです」
と答えると、
「日本はたいしたもんだ。世界をコンカー(征服)しましたねぇ」
と、辺り構わずあっさり完了形で言われた。
「いや、そんなことはありませんよ。ところで、あなたはどこからいらっしゃったのですか?」
と聞くと、
「イスラエルから来ました」
という返事が返ってきた。
 それ以上話を続けられなかったのは、まだ英会話能力が回復していなかったからだけではない。ユダヤ系の音楽家達の素晴らしい感性、アインシュタインなど科学者のとてつもない頭脳、ロスチャイルド達の世界中に張り巡らされた金融網と情報網などが頭の中を駆け巡って、「日本は世界をコンカーした」という言葉の出所を探していたのだ。
 確かに二輪のように世界の市場を日本のメーカーが支配している分野はある。しかし1980年に景気の悪いアメリカを抜いて日本が自動車生産世界一になっても、別に世界を征服したなどとは思っていなかったからだ。

 あのザンドフルトのレースから27年後の1992年にロータス社にも招かれた。
 ロンドンの北東200Km。見渡す限り広がる麦畑の中に、GM資本の下で、少量のスポーツカーを生産している工場があった。その隣で新しい技術の開発をやっている研究所をつぶさに見せてもらった。応接間に通されて、ふと見上げた壁に、今は写真になって額縁の中からにこやかに微笑みかけているコーリン・チャップマンを見つけた。大変懐かしくなってロータスの人達に、
「1965年にF1レースで私が会ったチャップマンはキングで、クラークはプリンスといわれていました」
と言った時、私の脳裏をよぎったのは、この27年間にロータスとホンダが辿った道の違い、チャップマンと本田宗一郎+藤沢武夫の違いだった。

 オランダGPの後、帰国した私が研究所に出社してみると、来年から新しく始まる3リッターF1のトランスミッションのレイアウト作業が待ち受けていた。
 それが終わるやいなや、入社3年目の入交昭一郎君がレイアウトしていた縦置き3リッターV型12気筒F1エンジンのシリンダーヘッドの図面を描いた。
 それから自分のトランスミッション・ケースの図面を描き終わると、10月に開発を公表した軽自動車N360の新村さんを中心にした開発グループが待っている、といった忙しさだった。
 その頃の小さなホンダの主な収入源はバイクだった。
 自動車は600ccのスポーツカーS600と、スポーツカーと同じ構造の360cc4気筒ダブル・オーバーヘッド・カムシャフト・エンジンを積んだ『軽トラック』等を少し売っていた。
 一方、50cc、125cc、250cc、350ccの2輪のGPレースをヨーロッパで一年中戦い、F2のエンジンをブラバムに提供し、F1のエンジンと車体を開発してヨーロッパを転戦していた。
 本田社長の率いる研究所の7割は、金にならないどころか金を食うレース関係の仕事で占められていたのだ。会社としては、金の稼げる量販車がどうしても必要だったのだが、我々研究所のエンジニアにとっては量販車の開発よりもレーサーの仕事の方が面白い。レースは負けたら出る意味が無い。開催日が決まっているので時間的にも後へはずらせない。だからどうしてもレーサーの仕事を先にやってしまうことになる。

 そこで、業を煮やした本社の藤沢副社長から研究所に強烈な要請があった。研究所の開発機種に、ホンダで初めて優先順位が付けられたのだ。その頃の手帳を見ると、N360を1位に量産機種が続き、F2が4位、2輪レーサーが5位、3リッターF1は6位だ。本田社長が陣頭指揮を取る研究所に対して、「金を稼ぐN360を第一優先で開発してくれ」という、経理を預かる藤沢副社長の悲鳴とも聞こえるような訴えだった。
 軽自動車のN360が、ホンダを2輪メーカーから4輪メーカーへ転進させたことを顧みると、「ホンダ」とその技術が世界中に認知され始めたこのタイミングを見据えた藤澤氏の決断は、大きなターニングポイントだった。

 レースと技術に突っ走る本田宗一郎1人だったら、チャップマンのロータスと同様、フェラーリのようなスポーツカーメーカーの道を歩んだかもしれない。
 しかしここでホンダが選んだのは、レースで磨いた技術と鍛えた人間を乗用車の開発に投入して、より多くの人々に喜んでもらう車を造るメーカーへの道だった。
 苦言を呈する藤沢武夫を退けず、むしろ、自分を客観的に見る鏡として最後までペアを組み通した本田宗一郎は、やはり偉かったというべきだろう。
 そしてこういう日本人を見抜くユダヤ民族も鋭いというべきだろうか。