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15.フランコルシャンの朝

紛れもなく約50年前の風景
彼らはすでにこうしてオートキャンプを楽しんでいた
 ベルギーグランプリが行われるフランコルシャンに着いた翌日、6月の朝の清々しさに誘われてオテル・ド・ブルイエールの窓を大きく開け放した。
 朝日に輝くプラタナスの若葉の下を、フォークを担いだおじいちゃんと空っぽのポリ容器を持った子供が歩いてくる。家畜に餌をやりに行ったのだろう。
 あれがプルイエール(ヒース)の花だろうか、芝桜の様な白い花で覆われた土手の上には万国旗がはためき、その下には緑の芝生が広がっている。レースを見に来た人達のオートキャンプ場だ。キャンピングカーに繋げたテントや、平らな板屋根の付いた色とりどりのテントが車とペアで並んでいる。
 テントに食料を運び込んでいる夫婦が見える。椅子を並べて食卓にテーブルクロスを掛けている。火をおこして朝食の用意をしているグループもいる。
 キャンピングカーってこういうふうに使い、バカンスのキャンプはこんな具合にやるものなんだ。我々が奥穂高に登った時の涸沢で張っていたテントとは、まるで違う都会的なテント村だ。
 そんなことに、感心したり羨ましがっていると、ガレージにお客さんが来たと言う。駆け降りて行ってみると、
 「BPの者だが、ガソリンはどれに入れるのかな?」
 あんまりお腹が大きいのでベルトでは滑り落ちるのだろう、幅広いサスペンダーでズボンを吊り上げた赤ら顔のオジサンが突っ立ている。青いシャツに赤い蝶ネクタイのユニホーム姿だ。思いがけない来客に戸惑いながらガレージの奥に見つけたドラム缶を転がして来て「これに入れて下さいと」と言うとオジサンは道路の方に引き返して、派手な色のタンクローリーを乗り入れて来た。
 内側に羊の皮を裏返しに弛ませて張った大きな漏斗をドラム缶に差し込んで、得意そうにガソリンを入れだした。羊の皮はガソリンを通すのかと気になったが、面積が広いのと毛穴は小さいが密なのだろう案外ジャカジャカと入っていく。
「これでキャブレターやインジェクションにゴミが詰まることはないよ」
と、オジサンはサスペンダーに親指を突っ込んで胸を張ってみせた。
 F1のメカニック達の工具も一つ一つなかなか凝っていて感心させられたが、このオジサンも自分の仕事にさまざまな工夫を凝らして、誇り高く働くヨーロッパの職人気質を見せてくれた1人だった。

 工夫が実った時の喜びは何物にも代えられない。それに工夫を凝らして問題を解決すればパテントが取れるのだからエンジニアは幸せだ。
 卒業前の会社見学で、ホンダの和光工場を見たのが決定的だった。それまでに見た工場では高価だった旋盤やフライス盤等の工作機械は、その会社の財産としてピカピカに磨き上げられて整然と並べてあった。「我が社には旋盤が何十台、フライス盤が何十台あります」というのが、その頃の会社の大きさを示す尺度だったからだ。
 ところがホンダの工場に一歩足を踏み入れて、目の前に並んだ旋盤を見てショックを受けた。高価な旋盤のベッドの上はみんな惜しげも無く改造されていたのだ。
 クランクシャフトを加工する旋盤は曲がったクランクシャフトを確実に支持して加工し易いように見事に改造してある。しかもそれらのジグは加工する部品に応じて、短時間で取り替えられるように工夫してあるという。
 「この会社は工夫する心を大事にしている。しかもそれを大胆に実行しているこの会社でなら工夫のし甲斐がありそうだ。未だ2輪しか造ってないけど、その内に4輪もやるに違いない」と、誰にも相談しないで入社を決めてしまった。ゲンコツが飛んでくる社長がいるなんて夢にも思はないで。
 そもそも私は、創立2年目で卒業生も出ていない高校に「外国人が英語を教えて国際的な人間を育てる」という謳い文句に魅せられて飛び込んでしまった前歴がある。生まれつき向こう見ずだったのかもしれない。

フランコルシャンの朝食 さて今日はプラクティスの初日。朝食を済ませてレース場のパドックまで200m位の公道を皆でF1を押して出掛けた。
 もうすでにフェラーリやロータスのチームが到着していて、何とF1をワックスで磨いている。F1は速けりゃそれで良いのだと思っていた我々ホンダチームは、車体の汚れは布切れで拭き取るだけで、ワックスまでかけて磨いたことはなかった。ワックスの1g分も重くはしたくないという思いが心のどこかに引っかかっていたのだ。
 手で使う道具に工夫を重ね、手塩にかけて進化した機械に育て上げて来たヨーロッパ人と出来上がった機械をそのまま使っている日本人とでは機械に対する親しみに大きな差がある様だ。自分達のF1がただ速いだけではなく、出来るだけ美しくも見せたいというヨーロッパのメカニック達のF1に対する慈しみが、ワックスをかけている指先とその眼差しに込められているようにも見えた。
 F1もレース場を突っ走るだけの単なるマシーンではなく、我々が日頃丁寧に磨いて大事に乗っている人生の伴侶としての「車」と同じ仲間なんだと教えられたような気がした。
 プラクティスが終わった夕方、早速スパーの街まで行ってワックスを買い求めて来た。翌朝から我がチームも整備の仕残しがないかと考える事を口実に、愛情を持ってワックスで磨く事にした。