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13.地中海の真鯛

 モナコのレースが終わった夕方、レニエV世通りのガレージでアムステルダムへの帰り支度をしていると、そこに又ひょっこり中村所付が現れた。
 「オートモビルクラブへ行って来年のためにも、お礼の挨拶をしてこよう」
という事になった。

 モナコは面積が2平方キロもない狭い所なので、どこに行くにもたいてい歩きだった。途中の郵便局で、昨夜久しぶりに書いた手紙を出して、オートモビルクラブへ向かった。クラブの会長さんは留守でお会い出来なかったが、色白で小太りのオジイさんは、いかにも観光地モナコの人らしく親切で人なつこい方だった。1周目と33周目にリタイアしてしまった我々に対しても「是非来年も来ていい走りを見せてください。今度はきっと良い成績が得られますよ」と、元気づけてくれた。
 中村さんもほっとしたのか、コーヒーでも飲んで行こうと海の見える丘の上に見つけたカフェに立ち寄った。
 今日のレースの事は、モナコ中の人が知っている様だ。オーダーを取りに来たマダムは2人の日本人を見て何の疑いもなくホンダの人だと思ったらしい。もっとも、此のモナコでは未だにホンダ以外の日本人には1人も会っていなかった。
 「ホンダも4、5年すれば勝てる様になるわよ」
と、慰めのつもりで言ってくれた優しさに「ありがとう」とお礼は言ったものの「オヤジさんは4、5年なんて、とてもじゃないが待ってくれないんですよ」と日本語で呟いた。
 夜、研究所に電話して状況を報告すれば、「何で勝てないんだ、どこが壊れたんだ?どういうふうに直すんだ?それで勝てるか?次のレースに必ず間に合わせろよ」と、詰め寄られるのは目に見えている。
 コーヒーを飲みながら海を眺め、気持ちを沈めてからホテルへ帰った。

 ホテルの部屋に着くのを待っていたかのように、電話のベルが鳴った。受話器を取ると泣き出しそうな女の子の声で、郵便局からの電話だった。先程切手を買った時に、初めて日本人を見て緊張したのか、間違って10倍のお釣りを渡してしまったと言う。
 よくもモナコ中からこの僕をさがし当てたものだと驚いたが「ちょっと待って」と言い置いて、財布の中身を調べてみた。
 10フラン出して研究所長へのお土産分も含めて6.5フラン分の切手を買ったのに93フラン50セントの釣りが入っている。私の10フランを100フランと間違えたらしい。
 ヨーロッパのお札は、高額の紙幣より小額の紙幣が大きかったりする、古ぼけた絵柄の紙幣が高額だったりする。全部が同じサイズのドル札と違って、よほど注意しないと金額を間違えることがある。
 それに私も中村さんが待っていたので、貰ったお釣りを確かめもしないで財布に突っ込んだのだ。
 「確かに余分なお釣りが財布に入っているから直ぐに返しに行きます」と言って電話を切った。

 正面はもう閉まっていたので夜間通用口から入ると、さっきの女の子が忙しそうにお金の計算をしていた。お釣りを手渡すと奥の方に居た局長も「メルシーボクー」と手を振ってお辞儀をしている。「どう致しまして、日本人は正直でしょう」という顔をして、こちらも手を振った。

 ホテルに辿り着いてみると、みんなが車に乗って私の帰りを待っていた。半月も日本食を食べていない我々に同情して、ギンサーがシーフードレストランに案内してくれるという。今夜もF1ドライバー運転の車で、フランス、イタリア国境に近いマントンの町へ向かった。
 ギンサーとバックナムはF1の整備を手伝うわけではないから、何時も我々と一緒にいる必要はない。だから、どの街でもレンタカーを借りて動き回っていた。今夜もそのレンタカーに乗せてもらったわけだ。アムステルダムからザンドフルトへテストに出掛ける時など、交差点で二人が並ぶとふざけてドラッグレースをやったりするが、今夜は実におとなしく丁寧に走ってくれる。

 マントンのレストランは地中海に張り出した崖っぷちに建っていた。暗くなって少し残念だったが、夜目にも素晴らしい眺めだ。ギンサーはモナコGPに何回も出場しているから、多分ここも彼が良く来る馴染みの店なのだろう。彼が予約してあったのか、シェフが、
「今夜は近くの海で取れたこの魚を料理します」
と、見せに来た。目の下50センチはある真鯛に似た今にも飛び跳ねそうな魚だ。鱗をきらきら輝かせながらお客の我々を眺めている。モナコ王宮の崖下にある庶民の市場で見る魚達よりは一回り大きく立派だ。
 しばらくして再びテーブルに運ばれてきた薄いピンク色の魚は、大きなお皿の中央に蒸し焼きにされ、細かくちぎった葉っぱと薄黄色の油がかけてあった。イタリア料理がすっかりポピュラーになった最近の日本では、この葉っぱがタイムで、薄黄色の油がオリーブオイルであることぐらいは誰でも知っている。しかしイタリア料理といえばスパゲッティぐらいしか食べたことのなかった我々の間では、
「なんと味の薄い、気の抜けた料理だろう」
という意見と、
「いや、あっさりしていて、白ワインともピッタリ合って美味しい」
という気取った見解とに分かれた。

ギンサー どのチームでも、ドライバーは車が良ければもっと速く走れると思って、チームにいろいろと難しい要求を出す。チームは、ドライバーの腕が良ければうちの車だって勝てるはずだと、心のどこかで思っているものだ。
 しかし目的は一つ、優勝することである。優勝に向けてドライバーとチームが心を通わせるためには、この様な楽しい食事を一緒にするのも有効だ。
 65年のメキシコでの最終戦を優勝で飾ってくれた老練なギンサーは、そこを見抜いてディナーに誘ってくれたのだろう。地中海育ちの真鯛のような目を持ったリッチー・ギンサーに感謝した一晩だった。