MENU

HONDA

検索
09.アムステルダムから車でモナコへ

〜1.ディジョンへ

 1965年前半のホンダF1チームは、まだ大型のトランスポーターは持っていなかった。シトロエンの低床バンタイプ小型トラック3台に、3台のF1とスペアエンジンやスペアパーツを積み、レンタカー2台で伴走してアムステルダムの整備基地から各国のレース場へ陸路転戦していた。
シトロエンのトラック  このトラックは1964年のチームが、フランスのヴァロン社から運転手付きでチャーターしていたもので、大分老巧化が進んでいて80km/h以上は出せないという代物だった。しかし道路がきれいに舗装されているヨーロッパでは、そんなことはないだろうと少し急がせたところがモナコへ出発した第一日目に、1台のサスペンションスプリングが折れてしまった。
 ブリュッセルに引き返し、修理屋を探し回っている間に日はとっぷり暮れ、最初の宿泊地北フランスのキャンブレのホテル・ムートンブラン(白い羊)に着いたのは、羊もとっくに寝静まった夜10時を過ぎていた。
 おかげで夕食はシェフの居ない食堂で、冷蔵庫から冷たいハムとチーズとパンを引っ張り出してワインで流し込む羽目になった。これに懲りて次の日からは用心深く80km/hで走った。
 パリの近くは道が混むというので、パリを遠巻きにして延々と田舎道を辿った。昼食を取ったのは偶然にも私の高校の創始者ラ・サールの生まれ故郷ランスだった。
 前日はオランダとベルギー、ベルギーとフランスの二つの国境を通り、税関で3台のF1と沢山の部品を書類と突き合わせて通関するのにメザース君に大活躍してもらった。彼は我々が航空貨物で世話になっているアムステルダムのアメリカン・エキスプレスの社員だ。六カ国語を話す南アフリカ生まれのオランダ人で、通訳兼道案内としてチームに同行してもらっていたが今日一日は田舎道のナビゲーターに終始した。

 二泊目のディジョンに着いたのは夜8時を過ぎていたが、どうにかディナーには間に合った。
 アムステルダムでの食事は中華料理が主だったが、ベルギー、フランスの旅ではチャイニーズレストランを探している暇はなかった。当然夕食だけではなく昼食にもワインが付く事になった。甘い「蜂葡萄酒」と「赤玉ポートワイン」しか知らなかった私も、辛口のフランスワインの味が少し面白くなっていた。
 初めて来たディジョンという街が、ブルゴーニュワインの本場だとは知らなかったのだが、ホテルの夕食で飲んだワインが美味しかったので、ワインを3本分けてもらってくれないかと、メザース君に頼んだ。
気を利かせて栓抜きまで添えてくれた。そのワインはスーツケースに潜り込んで私と共に旅を続け、平均睡眠時間5時間の寝酒になった。毎晩、研究所へ国際電話をかけた後、深夜に飲んだ此のワインの味は今でも忘れられない。
 又後に、カリフォルニアに駐在すると、ナパバレーのワイナリーを渡り歩いてテスティングを重ねたことも、ブリュゴーニュワインが遠因だった。
 ワインで思い出したが、前日ランスで昼食をとっていた時、隣のテーブルで飲んでいた白ワインのグラスに気泡が一筋立ち上がっていた。メザース君にあれは何と言うワインなのかと聞いたら、
 「シャンパンですよ。ランスはシャンパンの本場なんです」
 「それで食事にまでシャンパンを飲むのか・・だけどポーンと栓を飛ばさなかったじゃないか」
 「レストランでシャンパンの栓を抜くのに音を発したり、栓を飛ばしたりしたらそのギャルソンはクビですよ」ということだった。
 F1レースの表彰式でカップ授与の後、そのチームのお祝い用にスポンサーがシャンパンを届けてくれる様になったのは少し後の事で、シャンパンを勝者に浴びせかけるようになったのは、もっと後の事だ。シャンパンはポーンと派手に栓を飛ばし、泡を食って飲むだけのものではないらしい。

〜2.アビニオンへ

 ディジョンの眩しく輝く白い朝霧の中を出発したモナコへの三日目は、赤いポピーの花が風に踊る大きくなだらかな起伏に沿って走る道を上がったり下ったりを何度も繰り返し、その度に小さな村の教会の尖塔が見え隠れするブルゴーニュの田舎を南下する旅となった。
 パリからマルセーユまで「太陽の道」という高速道路を建設中で、部分的には完成していて走れた様だ。しかし時速80Kmしか出せないトラックと一緒では、道ばたで子供がサクランボを売っている田舎道を走るしかなかった。
 サクランボの種を口の中で転がしながら走っていると、フランスの道は大きな道路は勿論のこと、畑の中の田舎道にさえもカーブには必ずバンク(内側が低く傾斜)がついていることに気が付いた。これならシトロエンの2CVみたいに石畳でも乗り心地の良いふわふわなサスペンションの車でも、安全に速く曲がれるわけだ。
 ところで3台のトラックは3人のフランス人ドライバーが運転していた。その中の1人が英語が話せるというので、彼は3人を代表してフランス語訛りのたどたどしい英語で私に話をする。その代わりに私は拙いフランス語で彼に話をした。お互い必要最小限の事しか言えない方法で彼らを管理していた。各人がそれぞれ自分の意見を主張するフランス人3人に、勝手にフランス語で喋らせていたら、とても収拾がつかなかったからだ。またフランス人ドライバー1人だけでは居眠りするといけないという事で日本人メンバーが1人づつ同乗していた。
アビニオンの橋  この日、イタリア系フランス人ドライバーのトラックに乗っていた私は、次の宿泊地アビニオンに近づいた時「君はこんな歌を知っているかい?」と、眠気覚ましに高校で覚えた”アビニオンの橋の上で”をフランス語で歌ってみた。すると運転手君、喜色満面私の歌を引き取って大声で歌い出した。さすがにイタリア系だけあって、その歌唱力はオペラ歌手のパヴァロッティーの様だ。素人でもベルカント(オペラの歌唱法)で歌う。
 結局その日はアビニオンのホテルに着くまで、狭い2人乗りのキャビンはパヴァロッティ君のイタリア、フランス民謡大会になってしまった。

〜3.モナコへ

 アヴィニオンの古い城壁を後にした4日目は、マルセーユやカンヌ、ニース等コート・ダ・ジュールの観光地の混雑を避けて(密かに楽しみにしていたのに)、淋しいプロバンスの山越えでモナコに入ることになった。
 セザンヌが生まれ育った古都エク・サン・プロバンスへの矢印も横目で見ながらしばらく走った所で昼になった。さすがにここは古代ローマ人が田舎(プロバンス)と呼んだだけのことはある。山の中にやっと見つけたレストランは、日本だと峠の茶屋といったところだ。土間に置いてあるのは長い木のベンチ、テーブルはひびの入った分厚い板、その上にオバさんがドンと置いた瓶はワインでびしょ濡れで栓もレッテルもない、樽のコックを抜いてジャバジャバと注いできたらしい。飲んでみると水っぽい葡萄ジュースにアルコールが少しという感じだ。「これだ!フランス人が水代わりに飲むというワインは・・・」と、大発見した気分だった。
 後年、駐在したロスアンジュルスのスーパーで、取っての付いたでっぷり大きい1ガロン瓶(3.8L入り)のワインに4.98ドルのラベルが張り付いているのを見つけても驚かないですんだのは、此のワインのお陰だ。

 安ワインに悪酔いする事も無く、遥か下方にカンヌやニースを垣間みながら長い事くねくねと山道を辿り、夕方近くやっとモナコに下る事が出来た。
 本当は今夜泊まる事になっていた、カジノの前にあるヨーロッパでも最高級クラスの豪華なオテル・ド・パリを複雑な思いで通り過ぎ、古ぼけた気楽な駅前のオテル・デュ・セルクルに入った。部屋に荷物を運び上げ、鉄の二重格子をガラガラと開けて乗り込むエレベーターで1階に降り食堂に入ろうとすると、よぼよぼで足が少し不自由な魔法使いの様に痩せたお婆ちゃんが、杖をついて出て来るところだった。
 とっさにガラス張りのドアを手前に引いて、お婆ちゃんが出て来るのを待っていると、彼女は食堂の方へ向き直りギャルソン達に「この日本人青年を見なさい、親切でしょう(ギャルソン達には親切にされていないらしい)日本は明治維新を経て 大変文化の高い国なのよ。皆も見習いなさい」と言った。
 一般のモナコの人達は、日本がどこにあるのかさえ知らないのにこのお婆ちゃんは、東郷平八郎がイギリス留学からの帰途モナコに立ち寄って、カジノでも優秀な成績を修めた話を知っているに違いない。
 後で分ったのだが彼女は此のホテルのオーナー未亡人で見掛けに寄らず教養の高そうな老婦人だ。
 それにしてもモナコで明治維新を知っているお婆ちゃんがいるなんてまったく驚愕。ヨーロッパでは時々こんな人に出くわす。気を緩めてはいけない。