MENU

HONDA

検索
04.ゴールドメタリックのF1

 ホンダF1第一号車のパイプ・フレームの車体にエンジンが組み付けられた。どでかいタイヤと小さなステアリング・ホイール、燃料タンクやウィンドシール等が組付けられていく。
 オヤジさんは毎日見にきていた。窮屈なコックピットに納まって、ブレーキペダルを踏んでみたりクラッチペダルの具合を試したり、シフトレバーの動きが滑らかでないと改善を命じたりしていた。そして今日は乗れるか、明日は走れるかと目を輝かせて眺めていた。
 1964年2月6日(木)出来上がったF1を、荒川のテストコースで走らせる日が来た。河川敷にホンダが造った2.2kmの少し「く」の字に曲がったコースは、両端にUターンが出来るスペースと、風雨を避けるテントが一つ置いてあるだけの寒い所だった。
 11時28分、まず中村良夫所付(1964年度F1監督)が各部をチェックしながら慎重に二往復試走。5速ギアで8500rpmまで回転を上げた。175km/hだった。
 11時50分、点検が終わっていよいよオヤジさんが走り出した。幅5m位の盛り土を舗装した狭いコースの上では、さすがのオヤジさんも無理はしない。エンジンの調子を確かめながら車をいたわる様に二往復した。
 「エンジンが丸く回っていないぞ(各シリンダーが出す力にばらつきがある)」と、一言苦言を呈したが、鈴鹿サーキットで走らせるのが楽しみだと、車を降りた。
 この時のF1の色は、まだゴールドメタリックではなかった。塗装の色が決まってない時に塗る白色だった。

 話は4年前の1960年にさかのぼる。 
 イギリスのマン島のTTレース用に250cc.4気筒のバイクのエンジンを設計していた時、クランクシャフトのカウンターバランスを何とかコンパクトにまとめて、コンロッドを短くしたいと悩んでいると、オヤジさんに「金でも白金でも重たい物を埋め込めばいいじゃねぇか」と言われてしまった。
勝つためにはいくら金がかかってもいいから何でもやれということだ。

 さて、世の中にはどんな重たい物があるか調べてみた。しかし途中から値段も気になって調べてみた。結果は次の様なものだった。

  密度 g/cm3 価格/g
白金 21.37 1050円
19.3 585円
タングステン 19.1 2.3円
11.34 0.2円
7.86 0.153円

 この表をオヤジさんに示して、「密度は少し少ないけど、タングステンで如何でしょうか」と伺いを立てた。「うん、それにしろ」金でも白金でもと言ったオヤジさんの顔にも、ほっとした表情を見たような気がした。
 それ以降ホンダのレース用エンジンのクランクシャフトには、F1を含めて全てタングステンのカウンターウエィトが埋め込まれる様になった。

 金に糸目を付けずに造ったF1を「金色に塗れ」と言い出した時、少し成金趣味的な所はあるが、その気持ちも分らないではなかった。
 ところが、デザインのメンバーはオヤジさんの気持ちに輪を掛けて、キラキラ光る金粉入りのゴールドメタリックに塗った。
 組み立て室の蛍光灯に照らし出されたゴールドメタリックは、真に黄金に輝いていた。

 その輝くF1を初めて鈴鹿サーキットに運び込んだのは、2月16日。日曜日にも関わらず早速走り出したのはいいが、ウォーターポンプからは水が漏れ、スパークプラグのグロメットからはオイルが滲み、エクゾーストパイプにはヒビが入ってしまった。
 それから夜遅くまでかかって改修し、翌日も走った。暫くするとシリンダーヘッドのサイドカバーからオイルが漏れ出した。そして夕方シフトロッドの細い所が折れて、走行出来なくなってしまった。
 次の日2月18日は、オヤジさんが藤沢副社長を連れて見に来る事になっていたのだ。全員顔面蒼白、黙り込んで顔を見合わせた。

 その頃、新しい車が出来ると滅多に研究所には来ない藤沢さんを呼んで、沢山売ってもらおうとオヤジさん自ら懇切丁寧に説明していた。まるでプロジェクトリーダーが社長に説明している様に見えたものだ。
 「横に寝ているのが ”買ってもいいわよ” と言うような車にしてくれ」
と、スーパーカブのデザインに藤沢さんから注文を付けられていたオヤジさんは、女の人がスカートでも乗れる形のモックアップモデルが出来た時、大変喜んで「専務を呼べ」と、叫んだそうだ。
 駆けつけた藤沢さんに得意になって説明したオヤジさんが
「どれぐらい売れるかなぁ?」
「まあ三万台だな」
「年間三万台?」
「いや、月にだよ!」
 日本のバイクが全メーカー合わせて月に四万台ぐらいしか売れていなかった時に、1モデルで三万台。
 しかし、学卒の初任給が一万五千円位の時代に五万五千円もしたスーパーカブは爆発的に売れた。生産が追いつかず鈴鹿に新しい工場を建てる事になった。
 それから四十年以上、大きなモデルチェンジもせずに世界中で八千三百五十万台(2013年3月末時点)を越えて売れ続けている。藤沢さんの目には狂いはなかったのだ。

 その藤沢さんに「シフトロッドが壊れて今日は走るところをお見せ出来ません」などとは、口が裂けても言えない。すぐに研究所に電話をかけ、一晩で丈夫なシフトロッドを造って持ってきてもらう事にした。
 その頃オヤジさんに「すぐやれ」と、言われた物は他の物を押しのけてでも徹夜してでも大至急作らなければならなかた。図面に大きく特と書き丸でかこって「マルトク」と呼んだ。
 その太いロッドをマルトクで造って、待たせてあったタクシーに新村さん自ら飛び乗った。
1968年に東名高速道路の一部が開通する4年も前のことだった。深夜の国道一号を飛ばすしか無かった。埼玉の和光市から鈴鹿の我々の宿舎に新村さんが辿り着いたのは午前3時。飛び起きて、車体からエンジンを降ろし分解して待っていたトランスミッションにシフトロッドを組み込んだ。エンジンを搭載してリヤフレームを付けドライヴシャフトやサスペンションを組み立てて調整が終わったのはちょうど昼の12時、食堂へ急いだ。
 昼食を済ませてサーキットに戻ると、社長と副社長がメインスタンドに現れた。中村所付はショートコースを3周、ロングコースを3周無事に走って見せた。

 連日の寝不足と昼飯の満腹感で落ちて来る瞼を引っ張り上げながら、サーキットを走っているF1を眺めていた。
 背景が冬枯れで黄茶色のせいか、どんより曇って日が射さないからか、ゴールドメタリックが全然光って見えない。
 レースが始まる緑の春になれば、きっと鮮やかな金色に輝いて見える事だろう・・・と考えている間に又まぶたが落ちてきた。