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03.オヤジヨロコブ

 1964年1月30日の記者会見で、本田社長はF1レースに出場することを正式に発表した。
その席で、エンジン出力は200馬力以上だと喋ってしまったらしい。
 実を言うと、研究所では未だ200馬力出せないで困っていたのだ。実現していない目標を、あたかも達成した実績みたいに社外で公言し「オレは言っちゃったからな、頼むよ!」と社内の皆にハッパをかける常套手段を、オヤジさんはまた使ったのだ。
 オヤジさんを世の中の”嘘つき”にする訳にはいかないから、その高い目標をどうしても達成しなければならない。オヤジさん自身も”嘘つき”といわれたくないから一生懸命だ。これからオヤジさんのアイディア攻勢がますます激しくなる。
 私達は覚悟してかからなければならなかった。
 オヤジさんは、私が図面を描いている製図板の所にも来て
「マルさん、ここんとこはなぁ、こういうふうにすればフリクションが減って、もっと馬力がでるんじゃねのか?」
と昨夜考えついて、嬉しさの余り眠れなかったアイディアを、そこにあった赤鉛筆で図面に書き込んでしまった。

 私は「あそこは、何かもっと良い構造に出来るはずだ」と、布団の中でうとうとしながらあれこれ考えているうちに「こうしたらどうだろう!」と、無意識の霧の中からムックリ見慣れない構造が顔を出すことがある。
「そうすると、こっちがうまくいかない・・・」
「それじゃ、こうすればいいじゃないか」
 一つのアイディアが芽を出すと、嬉しくなった頭は冴えて回転が速くなる。少し位の欠点があっても、すぐ改良案を見いだしてどんどん進化していく。これが始まったら、神経が高ぶって夜が明けるまで眠らせてもらえないのだ。

 オヤジさんのアイディアが、あちらにもこちらにも雨霰と降り注ぐ中、我々も負けじと様々な妙案をひねり出していた。
 ピストンの剛性をあげたり、燃料ジェットの口径や向きを変えたり、冷却水の配分を変更したり、特性を変えたバルブスプリングを試したり、いろいろな長さや太さの吸気管や排気管を組み込んだりして、徹夜まがいのテストを繰り返していた。

 そんな日が続くなか、2月13日にはバルブ・オーバーラップ特性を変えたカムシャフトをテストする事になっていた。
 何時ものようにエンジンテスト室へ行ってみると、もうすでに新村さん、八木さん達、それにオヤジさんまできている。エンジンの馴し運転をしているダイナモ室の前で、例によってオヤジさんが冗談を飛ばして皆を笑わせている。
 設計者がテストに立ち会うのは、そこに現れるオヤジさんにテストの目的や内容を誤解されないように説明して納得してもらうためだった。
 納得してもらえないと「そんなテストヤメッチマエ!時間と金の無駄使いだ」と怒鳴られて、手間ひまかけて作った高価な部品を、オヤジさんの目の届くところではテストが出来なくなる。
 また、テストの途中や終わった後など、所構わず出てくるオヤジさんのアイディアの真意を確かめて、間違いのない部品を手配しなければならない。時々我々凡人とは狙いが違ったりするからだ。
 そしてこのテストの次に、どんな部品を造ってどんなテストをやるか「設計を呼べ」といわれる前に出頭して、決着を付ける狙いもあった。
 しかし、理屈に合わないアイディアに対しては、丁寧に分りやすく理由を説明して断らなければならない。失敗するとゲンコツが飛んでくることも覚悟の上である。
 これをやらないと、無駄な部品を沢山造って無益なテストをやらなければならないからだ。
「その代わりに、こうしたらどうでしょうか」と、代案を出してオヤジさんの高ぶる気持ちを鎮めるのも戦術の一つだった。
 そうしないと、限りなく流れ出て来るオヤジさんのアイディアの止めようがないのだ。この辺の呼吸をわきまえるには、少々時間と経験が必要だった。

 新しいエンジンが出来て、ようやく慣らし運転が終わった。5,000回転、6,000回転とメーターの針が安定するのを待って、各回転数ごとに出力を記録してグラフを描いていく。そのテスターの手元を皆なで見守っていた。今日こそは、200馬力を超えてくれと、オヤジさんも含めて全員祈るような気持ちだった。
 10,000回転で200馬力を少し超えた時、いつもなら冗談を言って茶化すオヤジさんも、「ウォー」と小さな声で呟いたきり黙ってしまった。
 私の手帳の1965年2月13日(木)のところに、「16時45分、RA270初めて200ps突破
210ps/11,800を記録、オヤジ ヨロコブ My birthday」と記してある。
 200馬力を飛び越えて210馬力出た時には、オヤジさんが皆の肩を叩いて「これで勝てるなぁ!」と、大喜びだった。しかもその日は私の誕生日で私にとっては二重の喜びだった。
 さすがのオヤジさんもこの日一日だけは上機嫌で、何の注文も出さなかった。
 一日だけといったのは、次の週に現れたオヤジさんが「あすこんとこをこういうふうに変えれば230馬力は出るなぁ」と、突飛なアイディアと引き換えに目標を230馬力に上げてしまったからだ。
 この頃のオヤジさんの頭には、エンジンの構造がすっかり記憶されていた様だ。

皇太子殿下 皇太子殿下が和光研究所を訪問された時、出来上がったF1エンジンの組立図を製図板に張り付けて、描いている振りをしている私のところに皇太子殿下を案内してきた。私を退かせて、自分が描いた図面みたいに得意になってこのエンジンの特徴を説明した。
 オヤジさんは、殆ど四六時中「あそこはこうしたらどうだろうか、ここはこうすればもっと馬力が出るんじゃないか」と、F1の事を考えていたので、図面を前にすると喋りたいことが山ほどあって、この時もべらべら随分長いこと喋っていた。
 とにかく、ホンダの中でも一番真剣に考えていたのは担当者よりオヤジさんの方で、頭の中では何時もエンジンが回っていた。考えていたのはF1エンジンの事だけではなく、2輪の事も、飛行機のエンジンの事も、そして沢山の特許を申請した。そこで、幾つ特許を取ったのだろうと思い、調べてみたら、面白いものを見付けた。

創業者の特許取得件数です。

トヨタ 豊田佐吉 119
松下電器 松下幸之助 110
ソニー 井深 大 103
ホンダ 本田宗一郎 474

 本田社長は1973年の創立25周年を機に藤沢副社長と同時に退任した。25年間に取った特許が474件、平均2ヶ月に3件の特許を取ったことになる。