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02.社長がお呼びです

 オヤジさんが研究所に出社して、必ず立ち寄る関心の高い場所がいくつかあった。その中に社長室は含まれていない。オヤジさんにとって社長室は上着を作業着に着変えるだけの部屋で、椅子に座って書類を読んでいるなんて見たこともなかった。
 気が急いでいると、作業着も着ないで現場へ直行する。部品をいじって油まみれになった手を無意識に袖で拭こうとするから、側の所員が慌てて布切れを差し出すことになる。スーツの袖が油で汚れないように、作業着の上着だけは必ず着てもらうようにしていた。

 本田技研工業は社印を預かっている藤沢副社長が本社で采配を振るい、研究所は所長が管理しているので、社長であるオヤジさんは研究所で好きな事をやっていれば良かった。
 オヤジさんはバイクや車のスタイリングに大変な情熱を持っていたから、先ずは二階のデザイン室に飛び込んで行く。デザイナー達と火花を散らして意見を戦わせ、勢い余って出来上がった粘土モデルをザックリ削ったりする。なかなか降りてこないから、設計の我々は一息つけることになる。
 しかし油断はできない。オヤジさんは設計室を通らずに、今日はどんな部品が出来てきたかなと、胸を踊らせながら検査室に行ったかもしれないからだ。
 設計者が描いた図面は、研究所の試作部門や外部の工場で部品に加工され、検査室の棚に並べられて、図面どおりに出来てきたか否かチェックを待っている。
 ところが、オヤジさんは逆に出来た部品を手に取ってつくずく眺め、組み付けて動かしたりする。変な図面を描いてないかチェックするのだ。これはちょっとおかしいなとオヤジさんのカンに引っかかると、「設計したヤツを呼べ!」ということになり、検査係から「オヤジさんが呼んでますよ」と電話がくる、オヤジさんが電話の近くにいると「社長がお呼びです」と、電話がかかってくる。係長や課長が呼ばれるのではない。実際に図面を描いた担当者が呼ばれて、現物を前に詰問されるのだ。

 新しいアイディアを思いつくと誰でも一刻も早くその結果を知りたいものだが、それにしてもオヤジさんは大変せっかちな人である。
 「どんなに画期的なアイディアでも、出願が1秒遅ければ特許は取れないんだぞ」
 「いくら進んだ技術でも、開発スピードが遅ければ他社に追いつかれて先進技術じゃなくなる」
 「特にレースじゃ次のレースに間に合うか、1週間遅れて他社に先を越されるかで、勝敗は決まってしまうんだぞ」
 急ぐ事が他社を置き去りにして発展する最善の方法だと思っているオヤジさんは「時間を稼げ!」と事あるごとにいっていた。
 レースは、開発からチェッカード・フラッグまで、正に時間を稼ぐ競争なのだ。