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01.チェッカード・フラッグ

 初めて造るF1エンジンを、V型12気筒にすることは案外簡単に決まったようだ。
 ある日、レーサー・エンジン設計のチーフで隣席の新村公男さんの所にオヤジさん(本田宗一郎社長)が「どうだい」と現れた。
 いつものように製図板に肘をつきながら、図面を眺めて話し込んでいた。そのうちにエンジン性能研究のチーフの八木静夫さんが呼ばれ、メガネの縁越しに見上げて意見を聞かれた。そんなことが2〜3回あって、「やっぱりV12だな」とあっさり決まってしまったように記憶している。
 他社並みの8気筒ではピストンが大きすぎて、ホンダの得意な高速回転・高出力には適さない。
 1500cc12気筒だと1気筒当たり125ccだから、ホンダではバイクのエンジンで扱い慣れているし、エンジン出力も125ccエンジンの12倍として予想できる範囲だ。そしてV型にすればエンジンの長さも7気筒分で、短くコンパクトにできるからだ。

 最近の大きな会社では考えられないことだが、このような車の基本に関わる重要な決定をするのに、当時のホンダの研究所では会議を開くようなことは全くなかった。
 オヤジさんは、その道の専門家をつかまえて意見を聞き、自分で考えて自分で決めた。ネクタイをするのが嫌いだったように、形式張って会議を開き、働いている者の時間を無駄にするような事はなかった。
 「決まったよ」といえば、それは「オヤジさんが決断した」という意味だ。物事はすべて前に進んだ。通達など出す必要はなかった。

 エンジンの大きさは、エンジンの背骨であるクランクシャフトの設計で決まるといっても過言ではない。F1エンジンの全体レイアウトを検討し始めた新村さんが、まず最初に取り掛かったのもクランクシャフトの構想設計からだった。
 その寸法が適正であるか否かを計算でチェックするのが、隣席の私の仕事だった。大学卒業3年目で、まだ計算の仕方を忘れていなかったからだ。バイクのレーサー・エンジンを設計した時からのコンビだから、どの部分の、どんな計算ををしなければならないか、言われなくても分っていた。
 ここにその時の計算書が残っている。「クランク撓(たわ)み検討 370209 A-1」とある。昭和37年2月9日、朝一番(A-1)に始めた仕事らしい。
 こんな計算書が個人の手元に残っていることについては、少々説明が必要かもしれない。
 ホンダではテストやレースの結果がすべてだ。計算結果がどうであろうと、図面にどう書いてあろうと関係ない。テストした結果はオヤジさんの厳しい目の前に晒された。
 いや、オヤジさんは鋭い臭覚で、壊れた部品の所在を嗅ぎつけてやって来る。言い訳でもしようものならゲンコツが飛んできた。
 計算は設計者が自分の設計した図面に自信を持つためのものだ。私が計算した結果を新村さんに告げると「そうか、よし分った」と、計算書には目もくれないで図面を描き続けた。
 それで、その計算書が今まで私の机の引き出しに残っていたという訳だ。

 クランクシャフトの強度や剛性、ベアリング容量等を様々な角度からチェックして、V型12気筒エンジンの長さがドライバーの肩幅位に納まる目処がついた。
 これでコックピットの後ろに横置きにできる。オヤジさん共々ほっとしていた頃、私のところにモナコF1 GPレースのレギュレーションブックが届いた。

 この頃、日本では東京オリンピックを目前に、カラーテレビの放送が始まったばかりで、ヴィデオはまだ出現していなかった。だからヨーロッパのF1レースが日本で放映されるなんて考えてもみなかった。
 ヨーロッパでF1レースを見た事があるのは、ホンダの中でもオヤジさんくらいのものだった。
 日本の自動車雑誌に、F1のレース記事が載る事はほとんど無く、丸善に送ってもらっていた外国の自動車雑誌にたまたま載る記事や写真を見る程度だった。
 二輪が主体で、エンジン車体合わせて21人のレーサー設計の中でも、F1やF1レースに関する情報は、きわめて初歩的なものだった。それを2輪GPレースの知識で補って、どうにかF1のイメージを作っていた。
 しかしレースに参戦するのだから規則をもっと正確に詳しく知りたいということで、レギュレーションブックを取り寄せたのだ。

 農業機器設計や試作加工部門、テスト部門を含めて700人ぐらいの当時の研究所には外国語の専門家などはいなかった。高校でフランス語が必修だった私が、ヨーロッパのレースに出かける二輪チームのためにミッシュラン・ガイドのフランス料理を少し訳したのがバレたらしい。レギュレーション・ブックも翻訳しろということになってしまった。ところが、手元に届いたレギュレーション・ブックの封筒は、切手の部分が切り取られていた。どんな切手が貼ってあったのか見たくなって、誰が切り取ったのか聞いてあるいた。意外にもそこを通りかかった白井孝夫研究所長が「丸野君、僕がもらったよ」と、所長室に招き入れ、大事そうに引き出しにしまってあった美しいモナコの切手を見せられた。封筒の切れっぱしに張り付いたままだった。

 所長は、スーパーカブを造り始めた1958年、大和工場で生産技術課長をしていた。初期トラブルを解決して量産体制を整え、ようやく売れ出した翌年「暫くヨーロッパに行ってこい。目的は自分で考えろ。期間もおまえが好きな様にすればいい」と、オヤジさんに送り出された。
 大学の経済を出た彼は工場施設はもちろんのこと、交通事情、駐車の仕方からファッションまで、あらゆる物を3ヶ月も掛けて見て歩いた。

 ヨーロッパから帰国した役員でもない39才の課長は、スーパーカブの新しい工場を造る責任者に任命された。
 「白井君が欲しいという人材は無条件で出してくれ」と役員会に告げた藤沢武夫副社長の後押しもあって、今までに無い「合理的手法のマスプロ工場」を鈴鹿に建てたのだ。モナコにも特別な思い出があったのかもしれない。

 私は会社で毎日10時半まで残業し、家に帰って夜遅くまで辞書と首っ引きでレギュレーションブックを翻訳した。公式な自動車レースがほとんど無かった日本の言葉に、フランス語を置き換えていくのは大変な作業だった。
 35年経った今でも忘れられない私の苦慮の末の訳語の一つが「白黒市松模様の旗」。文字をよく見てもらうと旗のデザインが分ってもらえると思ったのだ。
 チェッカード・フラッグと訳しても、知っている人は殆どいなかったし、何色の旗だか分ってもらえないと思ったからだ。最近の人は反対に市松模様って何だか知らないかもしれない。

 二輪メーカーのホンダが、世界に認められる自動車メーカーを夢見てF1の開発を始めた1962年、日本はパリ往復航空券の1/30しか初任給を払えない経済小国だった。