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幻のHondaインディ計画


第四章 中村良夫の報告書 1-ホンダがインディを走った日

INDIANAPOLIS SPEEDWAY TEST
インディアナポリススピードウェイに運び込まれたホンダRA301 1964年8月1日に、ニュルブクリンクで行なわれたドイツGPにデビューしたホンダF1は、翌年のメキシコGPと、1967年のイタリアGPで勝利を挙げ、1968年最終戦のメキシコGPを最後に、その活動を休止することになった。その活動の最後となったのが、1968年11月20日と21日の二日間にわたって行なわれたインディアナポリスのテスト走行だったのである。

 すでに本田宗一郎はそれまでに二度、世界最大と言われるインディアナポリス500マイルレースを見物していた。最初にインディアナポリス・モータースピードウェイを訪れた1964年は、まさにF1に挑戦を開始する直前にも関わらず、F1、2輪の設計開発を統括するレーサー設計室の責任者である新村公男を引き連れてブリックヤードの人となった。1966年に2回目の訪問をした時には、RA271、RA272、RA273の車体設計の中心となっていた武田秀夫とともに姿を現している。もっとも、1966年の武田の場合、宗一郎の命令で日本から同行したものではなく、会場で偶然に会ったのだったのだが、いずれにしろ、本田宗一郎が、F1とは違う趣のインディアナポリスのレースに並々ならぬ興味を示していたことに間違いはない。

 ただし、第一期ホンダF1の活動の最後となる『INDIANAPOLIS SPEEDWAY TEST』は、本田宗一郎の命令ではなく、会社の計画でもなかった。第一期ホンダF1の監督を務めた中村良夫が、自主的に行なった独自の行動だったのである。しかし、その思考回路こそ、ホンダ・マンのホンダ・マンたる所以ではなかったか。

中村良夫の思惑
メカニックのデニス・デイビス 中村良夫には、どうしても確認しておきたいことがあった。F1を休止する前に、まったく性格の違うインディ500を中心とする“インディカー”に対して、自分たちが作ったF1がどれくらいの戦闘力を持っているか。1968年を区切りに活動休止に入る前に、それを確認しないことには納まらなかった。

 すでに、1968年11月3日のメキシコGPを終えたホンダF1チームは、工具などを含めてイギリスに帰っていたが、中村は、メカニックのデニス・デイビスにインディアナポリスまで来るように指示を出し、グッドイヤーにタイヤの手配を打診した。デイビスは、その8年後の1976年、インディ500のウイナーとなるジョニー・ラザフォードのチーフメカニックとして優勝に貢献した男であり、ホンダF1のメカニックとして中村との間にあつい信頼関係を築いていた。また、1990年代になってから、ホンダが日本のレーシングドライバー育成のためにロン・トーラナックに設計を依頼して開発したフォーミュラカーの組み立て作業にも協力することになる“生涯メカニック”である。

 中村が、第一期ホンダF1最後のドライバーとなったジョン・サーティースに真っ先に連絡したのは言うまでもない。中村の申し出をサーティースは了承したが、テスト間際になって問題が発生した。インディアナポリススピードウェイを初めて走る時は、ルーキーテストを受けねばならない。1964年ワールドチャンピオンのサーティースは、それをよしとせず、計画は暗礁に乗り上げるかに見えた。

 しかし、中村は諦めなかった。ホンダF1のデビュードライバーを担い、2年間のF1生活を共にしたアメリカ人のロニー・バックナムに連絡を取り、テストドライバーを要請した。すでに当時、インディカーのドライバーとして活躍していたバックナムは、この年のインディ500は、オイル漏れでリタイアを喫していたが、10月に行なわれたミシガン・スピードウェイのレースでは、オープンしたばかりのコースで予選8位から果敢なレースを見せ、念願の初優勝を経験していた。バックナムは中村の申し出を快諾した。かくて3年振りに古巣ホンダのマシンに乗ることが決まったバックナムは、ロサンゼルスからのフライトでインディアナポリスに駆けつけた。

 インディに運び込まれたのは、メキシコGPで、自らのマシン(マクラーレンBRM)を壊したジョー・ボニエが、ホンダに掛け合ってレンタルしたサーティースのスペアカー、ゼッケン17番のホンダRA301だった。皮肉なことにメキシコGPでは、予選5位からスタートしたチームのエースであるサーティースは、決勝をレースをリタイアで終えたが、ボニエは、予選18位の後方からスタートし、5位でゴール、第一期ホンダF1最後のポイントゲッターとして記録を残すことになった。ブリックヤードに運び込まれたのは、記念すべきそのマシンだった。

オーバルに響くホンダ・サウンド
メカニックのデニス・デイビス  テストは11月20日と21日の二日間の予定で行なわれた。コースに居合わせたホンダの直接関係者は、中村良夫とデニス・デイビス、そしてロニー・バックナムの三人だけ。他の関係者も、グッドイヤーのタイヤエンジニア、数人のスピードウェイの係員と、話を聞きつけた地元新聞の記者だけだった。大きくて冷たいスピードウェイは、ガランとしていた。

 中村の意気込みはしかし、出鼻を挫かれることになった。11月のインディアナポリスは凍てつく寒さである。初日の20日、鉛色の空からは小雪が舞い散り、コーナーには氷が張っていた。22周を走行したものの、本格テストには到らなかった。ホンダV12の軽快なサウンドがオーバルにこだましたのは、なんとか持ち直した2日目だった。中村は、空を見上げた時の気持ちを、「空は澄み渡り、陽光輝く」と表現した。

 時々吹きつける強風の中で、V12は駄々をこねることなく快音を発した。寒い気温に助けられ、懸念されたオーバーヒートも出なかった。甲高いホンダV12サウンドが初めてスピードウェイに響く、記念すべきその瞬間を目の当たりにして、中村とデイビスは胸をなで下ろした。スピードウェイのコース整備を担当していたボブ・クリディンストは、リヤに羽根を付け、小さいクセに想像よりはるかに速い白いクルマを目を丸くして凝視した。The Indianpolis Starのジョージ・ムーア記者は、複雑な気持ちで、今まで聞いたことがない大きなエンジン音を聞いていた。

 中村のストップウォッチによれば、ホンダF1が記録した最高スピードは、158マイル/h。その年のポールポジションは、タービンエンジンを積んだSTPロータス56(ドライバー=ジョー・レオナード=1971/1972USACシリーズチャンピオン)の171マイル/hだった。ホンダF1がエネルギーの大きいメタノールではなく、通常のガソリンを使い、初めてのグッドイヤーのインディ用タイヤを履き、セッティングが不完全なままだったことを考えると、ホンダF1の記録は、インディが世界一だと信じて疑わないアメリカ人記者を複雑な気持ちにさせるに充分な速さだったのだ。

 ひとしきりテストを終えたバックナムは、クルマを降りると、興奮気味にこう言った。
「コーナーからの立ち上がりで(ターボ付きのオーフィーエンジンに比べて)力ずくの押しがないけれど、シャシーは安定していて、ハンドリングも問題ない」。

 リヤウイングのお蔭でダウンフォースが効き、バックナムはそれまで経験したことのないスピードでコーナーに進入できたことに驚いていた。リヤウイング付きのマシンがスピードウェイを走ったのは、この時が初めてだった。

 中村はこの2日のテストの模様を、ウイングマークが付いたHONDA R&D CO.,LTD.のA4サイズのレターヘッドに6枚に渡って克明に記していた。

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