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幻のHondaインディ計画/第三章




 歴史的に見て、1968年は、マシンだけに限らず、F1GPが大きな転機になった年として記憶される。ハードの部分では、1966年から3000ccになってよりスピードアップしたことを受けて、ダウンフォース獲得のアイデアとして登場した高く掲げられたウイングが大きな特徴になっている。

 ウイングを装着するアイデアはアッと言う間に大流行。ホンダのマシンにも、7月のイギリスGPからウイングが装着されたが、その理由は空力的なアドバンテージよりも、“チームの士気を高める”意味合いもあった、と中村良夫第一期ホンダF1監督は明かしている。

 インディアナポリスを走ったホンダRA301にも、リヤサスペンションの上に高々とウイングが掲げられていた。300km/hオーバーの世界では、士気を高めるだけでなく、充分な効果を発揮、コーナリングを安定させて、ドライバーのロニー・バックナムは「これほどのスピードでコーナーに走ったことはない」と感想を述べたと言われる。

 一時は、前後に高く掲げられたハイマウントウイングはしかし、支柱が折れるトラブルが続出、バランスを失ってアクシデントにつながま事態が頻発したことから、翌年のF1では、高さが制限され、現在に到っている。

 もうひとつ、1968年のF1マシンの特徴はスポンサーカラーの登場である。鬼才デザイナーであるだけでなく、チームマネージャーとしてもらつわんを振るったロータス・チームのコリン・チャップマンが、ゴールドリーフというタバコのパッケージの色を、そのままマシンに塗って登場、国毎のナショナルカラーの時代からスポンサーカラーの時代に移行するきっかけとなった年であった。

 スポンサーカラーの登場で、スポンサーの発言力が徐々に強くなり、1968年を境に、レーシングスーツとヘルメット持ってサーキット入りしていたドライバーは、契約書やスポンサーのプロモーションスケジュールが入ったアタッシェケース抱えてサーキット入りするようになったと、皮肉たっぷりのジョークがパドックで聞かれるようになった。
















 インディカーにとっても、1968年はエポックメイキングな年だった。ロータスがヘリコプターのエンジンを積んだタービンカーを走らせたのだ。もっともタービン・エンジンに限って言えば、1967年に圧倒的なスヒードを見せて注目され、1968年には、吸気口の規制がかけられる存在だったが、そのロータス56は、エンジン以外にも、インディカーの常識を覆す二つのメカニズムでも話題になっていた。それは、まるでくさびのようなボディ(それゆえ“ウェッジシェイプ”と呼ばれた)と、4輪駆動システムである。

 前のめりのボディが、空気の流れの反作用で路面に押しつけられるウェッジシェイプは、その後、F1のデザインにも強い影響を与えたが、“葉巻型”フォーミュラカーの定番であった1968年当時は、大きなインパクトをもってインディアナポリスに迎えられたことは想像に難くない。

 このマシンは、グラハム・ヒルのドライブで、レースの大半をリードした。吸気口制限を、ウェッジシェイプと四輪駆動がカバーして余りあった、ということだ。しかし、ゴールまで僅かのところでリタイア。この後、さらに吸気口規制を厳しくされたタービンエンジンカーは、勝利の女神から見放されたまま姿を消した。

 このマシンは、その後、改良されて1971年のF1GPに参加したが、インディのような単調な高速コースとは違い、曲がりくねったF1のサーキットでは、四輪駆動による重量増も足を引っ張り、好結果を残すことはできなかった。


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