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幻のHondaインディ計画/第四章





 1918年山口県生まれ。第一期ホンダF1監督。空ヘの憧れから東大工学部航空学科から中島飛行機に就職したが直後に終戦。飛行機への情熱は、三輪車などを製作していたクロガネを経てホンダに入社する頃には、F1マシンに向けられるようになっていた。

 本田技研の入社試験の時、面接官として立ち会った本田宗一郎社長に、「四輪F1グランプリも考えていらっしゃるのですか?」と訪ね、本田宗一郎が「できるか、できんか、オレにはわかんねぇけど、オレはやりてぇよ」と答えた、というやり取りが交わされた。ホンダがF1に参戦する6年前の1958年のことである。

 1968年のF1活動休止後は、初代シビックの開発に関わる。ホンダの役員室を退いた後は、社団法人日本日本自動車技術会副会長/国際自動車技術者連盟会長を務め、並行してグランプリ・ジャーナリストとして多くの著書も残している。軽妙洒脱な文章と独特のイラストで数多くのファンを持つ。
1994年11月没。




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