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幻のHondaインディ計画


第三章 1968年11月20日・三人の証言者

2001年アメリカGP
例年どおり超満員のスタンド 2001年9月。ホンダのF1スタッフは、インディアナポリス・モータースピードウェイにいた。F1GP第15戦アメリカGPを、BARとともに闘うためである。しかし、30年以上前に、自分たちの先輩によって、そこをホンダのマシンが走ったことを知るメンバーはほとんどいなかった。

 ホンダは、1968年11月3日のF1GP最終戦メキシコGPをもって、第一期F1活動を休止した。その最終戦を終えた故中村良夫ホンダF1チーム監督は、そのまま日本に帰らず、“より道”してテストを行なうことにしていた。テスト会場はインディアナポリス・モータースピードウェイ。ホンダ第一期F1最後のレースであるメキシコGPを走ったホンダRA301を持ち込んで、2日間の走行テストを慣行したのである。

 マシンは、メキシコGPでジョー・ボニエ(1972年のル・マン24時間のアクシデントで他界)にレンタルし、5位を得たRA301である。中村良夫監督の興味は至って基本的なところにあった。“インディカーとF1マシンの比較”である。1968年11月、寒さの厳しいインディアナポリスに冬の便りが届きはじめた時だった。

日本インディ
 ホンダF1が初めてインディアナポリスを走ったその2年前の1966年、富士スピートウェイで一風変わったレースが行なわれている。“日本インディ”である。インディ500を走るマシンとドライバーをそのままそっくり富士スピードウェイに招待し、レースを行なったのだ。

 当時、日本に入っている情報では、F1とインディは、“外国のビッグレース”であることは伝わっていたものの、両者ははっきりと差別化されてはいなかった。しかし、アメリカの影響を受けていたことから、アメリカが世界最大と言ってはばからないインディ500の名前は、このレースによってさらによく知られるようになったのだった。

 そもそも富士スピードウェイ自体、インディアナポリスと同じようなオーバルコースとして誕生するはずだった。完成1年前の1964年の段階の構想は、インディと双壁を成すストックカーで名高いデイトナ・スピードウェイに疑似した トライアングルオーバル(オムスビ型のオーバルコース)だったのである。そうした背景から、通常ならサーキットと呼ばれるはずのところが、オーバルコースの名残から、富士サーキットではなく富士スピードウェイと名付けられたという経緯もあった。

 また、インディ500は、1950年から1960年までの11年間、F1GPの1戦に組み込まれていた。その後、1964年には、F1で活躍するロータスがミッドシップのマシンを持ち込み、翌1965年と1966年に、F1トップドライバーのジム・クラークとグラハム・ヒルが連覇、フロントエンジン車全盛のインディに衝撃を与えるなど、F1とインディアナポリスの間には密接な関係があった。

 インディとF1の間には、そうした関係があったとは言え、元々、屈曲したいわゆるサーキットを走るために設計されたF1マシンを、何の改造もせずにアクセル全開の超高速のオーバルコースで走らせようとしたのだ。そのアイデア自体、突拍子もないものであり、ホンダらしいいたずら心と言えるものだった。

 ところで、1964年にインディを訪れ、ホンダ社内報でもその模様を座談会で語った本田宗一郎は、この1966年にもう一度インディアナポリスを訪れている。世界一を目指してF1に参戦した。しかし、ヨーロッパだけでなく、アメリカを制さずして文字通りの世界一にはなれない。ビジネスの面でも、アメリカは無視できない対象だ。宗一郎はそう考え、そのアメリカを代表するインディ参戦をいよいよ実現すべく、当時、研究所の設計課長だった武田秀夫氏を伴ってスピードウェイを訪れた。それは、1964年に初めて訪問して“見物”した時よりも、“より具体的な視察”に見えた。

 インディ500のオーバルの半分を使い、インフィールドに新設したサーキットをジョイントしたコースで、初めてインディアナポリスでF1が行なわれのは、それから30年以上後のことである。

 そして、2001年に初めてF1レースが行なわれるインディアナポリスのアメリカGPのその会場で、忘れられていた事実が、3人の証言者によって解き明かされてゆくのだった。

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