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幻のHondaインディ計画/第三章 1968年11月20日・三人の証言者
証言者1-ディレック・ウーォカー
ディレック・ウォーカー氏 ウォーカー氏は、服部尚貴と中野信治をCARTシリーズで走らせ、この2001年には、高木虎之介をサポートするウォーカー・レーシングのオーナーのイギリス人である。

 ウォーカー・レーシングは、インディアナポリスにガレージを構え、スピードウェイ(インディアナポリスでそう言えばインディアナポリス・モータースピードウェイのことである)との関係も深い。イギリスからアメリカに渡ってアメリカのレース界で最高のチームと言われるチーム・ペンスキーのマネージャを務めた後、1990年に独立。1992年には、スコット・グッドイヤーの手でインディ500史上最も僅差の2位という記録を作って観客を沸かせるなど、永年のインディ500との付き合いから、スピードウェイの主と言える一人だ。

 ウォーカー氏は、1997年からホンダ・インディV8を使っていた関係で、ホンダF1がインディを走ったという情報に興味を持ち、早速、デスクの電話で秘書を呼び出し、スピードウェイに連絡をさせた。

 インディアナポリス・モータースピードウェイは、40万人という膨大な観客を集めるレースとしても知られているが、1911年に始まるその歴史を飾ったマシンや資料を、コースのインフィールドにあるニ階建てのホール・オブ・フェイムに納めていることでもお馴染みだ。1階に歴代のマシンや記念品が並べられて多くのファンに披露しているが、圧巻は、地下1階と2階にもあった。地下には、1階の展示会場に納まり切らないマシンが、まるで秘密基地のように納められ、ウォーカー氏は、そこに足を踏み入れられる数少ないビップとして認識されている。そして2階には、膨大なデータを納めた資料室がある。ウォーカー氏が秘書に連絡を取らせたのは、そこを管理するある人物だった。

証言者2-ドナルド・ダビッドソン
ドナルド・ダビッドソン氏 「ハ〜イ、ドン、元気でやってるかい?」。秘書が取り次いだ電話で、ウォーカー氏は親しそうに話し始めた。「早速だが、クイズをやろう。ヒントは1968年、F1だ」。ウォーカー氏は、イギリス人らしいウィットで電話の相手にジョークを飛ばした。そして次の瞬間、「ワォ! サスガだ!」と受話器に向かって叫んだのだった。電話の相手、ドナルド・ダビッドソンが、「あ〜、11月20日と21日だね。ホンダF1が走った日だよ」と即座に答えたからだった。

 「ここに、面白い資料を持った日本人が来ているんだ。その時の写真を探している。協力してあげてくれないか」。電話の向こうから「ノープロブレム」という声が聞こえた。

 インディアナポリス歴戦博物館とも呼べるホール・オブ・フェイムの2階に上がると、質素な受け付けがあった。受付嬢に名前を告げると、ほどなく、長身で温和な表情のダビッドソン氏が現れた。差し出された名刺には、Historianと書かれていた。

 ヒストリアンとは、直訳すれば歴史家である。ダビッドソン氏は、インディ500の歴史だけを徹底的に研究している人物である。それだけで歴史家が存在する、という事実が、改めてインディ500というレースの壮大な歴史と、国の歴史が浅い代わりに、だからこそ歴史を大切にするアメリカを思い起こさせた。

インディアナポリススター紙 ウォーカー氏からの電話の後、ダビッドソン氏はホンダF1が走る写真を探してくれたが、残念ながら膨大な資料の中にも、ホンダの写真は存在しなかった。「その代わり、と言っては何だが、これなら見つかったよ」と、ダビッドソン氏は、薄いピンクオレンジの古びた新聞を見せてくれた。1968年11月27日付けの「The Indianapolis Star」である。そこには確かに、インディアナポリスを走る白地に赤いストライプのマシンが写っていた。紛れも無くホンダRA301だった。

 ダビッドソン氏は、新聞のコピーを取ってくれると同時に、もうひとつの情報をくれた。「スピードウェイのオフィシャルで、その日、ホンダF1が走るのを見ていた男が、今もここで働いているんだ。今日もコースに来ているはずだ」。老人の名前を聞いて、ダビッドソン氏へのお礼もそこそこに、彼が勤務するコース沿いの建物に急いだ。

証言者3-ボブ・クリディンスト
ドナルド・ダビッドソン氏 メインストレートに沿って建つコントロールタワー隣にある建物4階のプレスルーム。77歳のボブ・クレディンストさんは、プレス対応のためのメディアスタッフとして働いていた。そして、「よく覚えているよ」と、その日を喜んで回想してくれた。

「小さいクルマだったので印象に残っているんです。最初の日は、ミゾレ混じりの雨がパラついていて、あまり走らなかったと思います。寒かったので、確かバンクが凍結して、それを溶かす作業をした覚えがあります。二日目に、どうにか雨が上がって、走りはじめました。大きな音がするエンジンだったね。こんな小さいクルマでここを走るのは無理だと思ったんだけれど、走り始めたら、予想よりはるかに速いので驚いた。ウイングを着けたり外したりしながら走っていました」。

第一期ホンダF1最後のレース テストドライバーを務めたのは、ロニー・バックナムである。1964年の第一期ホンダF1のデビューイヤーから2年間、ホンダと共に闘ったアメリカ人である。当初、1968年のエースドライバーであったジョン・サーティースによるテストが予定されていたが、インディアナポリス・スピードウェイを走るためにはルーキーテストが必要だった。1965年にフェラーリでワールドチャンピオンを取っているサーティースであっても、例外を認めないのがアメリカのやり方であり、インディアナポリスの方針だった。しかし、サーティースのプライドはそれを許さなかった。サーティースは、結局、インディアナポリスまでやって来ながら、ホテルで待機することになり、中村が“旧友”のバックナムを急きょ呼び寄せてテストが実現した。

 中村良夫は、その日の様子を、Honda R&D Co L.T.Dと書かれたレターヘッド付きのレポート用紙6枚に渡って、克明に書き残していた。ウォーカー氏がダビッドソン氏に“面白い資料”と言ったのは、英語で書かれたそれだった。

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