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幻のHondaインディ計画


第二章 丸野エンジニアの手帳

丸野さんの手帳
 丸野さんが取り出した手帳には、確かに、インディアナポリスのコース図が書かれていた。その手帳は、1964年、ホンダがF1にデビューした年のものだった。

 丸野富士也さんは、第一期ホンダF1の初期、トランスミッションの設計・開発に携わり、F1挑戦2年目の1965年に、ホンダF1とともに世界のグランプリ・サーキット巡ったエンジニアである。この『ホンダF1ルーツ紀行』の別企画、“丸野エンジニアの手記−未知の国、F1の香り”の著者でもある。

 その丸野さんが、大切に保管してある思い出の品々の中に、1964年の手帳があった。手のひらサイズのその小さな手帳に、知られざる事実が記されていたのである。

インディ計画が記された丸野さんの手帳
手帳を眺めて思い出を語る丸野さん
インディ計画
上段が1964年、下段が1965年 日本が東京オリンピックに湧き、高度成長の急坂を登り始めたこの年、アメリカが誇るインディ500マイルレースは、偶然にも歴史的な節目のレースとして位置づけられることになっていた。

 手帳は、1週間毎に見開きで日付が印刷されていた。左側のページが7つに区切られ、上から下に向かって月曜日から日曜日までの予定を書き込めるようになっている。右ページはメモのための余白。この書式は現在、文具店で見かけるものと同じである。すでに40年前にこの形は存在していたのだ。

 その手帳の5月の第一週の余白に簡素な表があった。表は、7から12までの数字が上段に、1から6までの数字が下段に書かれ、罫線で区切られていた。上段が1964年、下段が1965年だと、と丸野さんは教えてくれた。

 表には記号が記されていた。7月の位置にある“RC”は2輪、8月の“RA”はF1を意味する。当時は、2輪と4輪の明確な担当分類がなく、開発が混在していたことを物語っている。

 そして、表の9月と10月の2カ月に当たる部分を区切って矢印で範囲指定され、“K030(Indy)”の文字が見える。K030は、先行開発用単気筒エンジンの呼称である。それはかっこ付きの注釈にあるように、インディ用エンジンのことだった。

 また、7月から1月区切りの大まかな年間予定が書かれたその表は、翌年の6月までのちょうど1年分を現しているが、翌年の2月と3月の区切りの罫線を起点とする矢印に“Indy”と書き込まれている。間違いなく、インディ計画は存在していたのだ。

楕円のコース
画面一杯に書かれたインディのコース図 手帳の表紙の隅には、金の箔押し文字で『'64』と表記されていた。

 開いたサイズがちょうど両手を広げた大きさになるその手帳のページを繰っていくと、同じ5月の最終週の余白に、今度は大きな四角い図が現れる。紛れもなくオーバルの、中でも独特の、4本の直線をカーブでつないだ、1周2.5マイルの弁当箱型のインディアナポリスのコース図である。

 コース図には、コースの幅員やストレートとコーナーのデータがマイル表示で記されている。その左側のページには、Ford V8-LotusとOffyの文字がある。フォードV8は、その前年にデビューしたロータスのミッドシップに積まれてセンセーションを巻き起こしたエンジンであり、オッフィーは、インディの花形エンジン、“オッフェンハウザー”の略である。

 Methanol 450PS/8500rpm、Gasolin 400PS/〃、はそれぞれ、メタノール燃料を使った時とガソリンの時のフォード・エンジンの出力データであり、同じく、440PS/6500、400PS/6500がオッフィーの数値である。

 手帳に“インディ”の予定が書き込まれた1964年5月、それは第48回インディアナポリス500が行なわれていた時である。まさに、本田宗一郎が初めてインディアナポリスのレースを見物し、そのスケールを実体験したその月だった。

 入社間もない丸野さんには、上層部の考えを知る術がなかった。さらに、当時、2輪と4輪ごちゃまぜにして開発が山積していたレーサー設計室にあって、どこまでの具体的作業が行なわれたか、丸野さんの記憶には確たるデータは残っていない。

 しかし、K030のKは“kakunin”のKであることが、現在、過去のデータを整理しているスタッフの証言で明らかになった。そして、当時、レーサー設計室を監督していた二代目社長、河島喜好さん(現最高顧問)は、手帳の写しを懐かしそうに眺めながら感慨深げに証言した。

「こんなものが残っていたんですか。確かに、当時は、いろいろやってましたね、本当にいろいろ(笑い)。アメリカのインディも、挑戦する対象のひとつとして、検討していました。宗一郎さんがインディに行ったのも、その一環のことだったと思います。結局その時は実現しなかったけれど、それが後になって、アメリカ・ホンダの活動や、CARTやIRLに繋がって花開いたんですね。夢を持っていた当時のエネルギーがね」。

 丸野さんの手帳のインディ計画は、すぐには実現することはなかった。しかし、ホンダは、その4年後、全く別の形でインディアナポリスを走ることになるのである。

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