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ヨーロッパ耐久レース Honda無敵艦隊の軌跡 1976~1979ヨーロッパ耐久レース Honda無敵艦隊の軌跡 1976~1979

2016-2017FIM世界耐久選手権(EWC)シリーズには、Hondaのマシン「CBR1000RR」を駆るチームとしてHonda Endurance RacingとF.C.C. TSR Hondaの2チームが参戦。最終戦の鈴鹿8時間耐久ロードレースまで続く全6戦のシリーズを戦っています。そのEWCの前身がヨーロッパ耐久レース。1970年代には、Hondaチームが4年間にわたってライダータイトルとメーカータイトルを独占し、その強さゆえに「無敵艦隊」と呼ばれました。ヨーロッパ耐久レースでのHondaチームの軌跡を振り返ります。

序章 Hondaワークス、9年ぶりに世界へ。
必勝を至上命令に耐久レースへ挑戦

ヨーロッパ耐久レース Honda無敵艦隊の軌跡

 TTレース出場宣言から12年。ついにHondaは1966年、WGP制覇(50cc、125cc、250cc、350cc、500ccの5クラスでメーカータイトルを獲得)という快挙を達成。そして翌67年限りで9年間におよぶWGP参戦に終止符を打った。メーカーとして四輪車の開発に注力するためで、68年にはF1も活動休止。ワークスでのレース参戦は、散発的にデイトナ200マイルへ出場する程度となった。

 Hondaが国際レースから去ったあと、70年代になるとWGPをはじめとしたスプリントレースは、2ストロークエンジン全盛期を迎えた。ヤマハ、スズキ、カワサキの2ストロークマシンがWGPやデイトナで大きな成果を挙げ、その潮流は全日本選手権にも波及した。もはやレースでは行き場を失ったかのように見えた4ストロークマシンであったが、市販車を改造したマシンが中心のヨーロッパ耐久レースでは主役であり続けた。

CB750レーサー(73年)
CB750レーサー(73年)

CB500R(75年)
CB500R(75年)

 それまでヨーロッパの耐久レースでは、ドゥカティやモト・グッツィ、BMWなどの2気筒マシンが活躍していた。それが70年代になってCB750FOUR(Honda)やZ1(カワサキ)といった日本製の並列4気筒マシンが席巻。パワフルなマシンの登場によってレースは白熱し、それにともなって参戦チームや観客も増加した。75年にはFIM(国際モーターサイクリズム連盟)選手権に昇格。いわゆるヨーロッパ耐久選手権と呼ばれたこのシリーズは、市販車に創意工夫を凝らした改造マシンがレースを走り、その性能を証明する──ファンにとって身近なマシンで行われる注目すべきレースであった。しかも観戦のみならず、出場することにも門戸が開かれていたため、その人気はうなぎ登りとなる。特に、“金杯”のタイトルがかけられたボルドール24時間は20万人近い観客が集まるなど、WGP以上の人気を集めていた。

 当時は、73年の第四次中東戦争によって原油の価格が高騰し、供給量もひっ迫。オイルショックと騒がれた日本だけでなく、欧米でも二輪車・四輪車が思うように売れない時代だった。そんな時代であっても、ヨーロッパ耐久選手権を席巻していたカワサキの大型二輪車が、現地の街中でよく見られたという。つまり、ヨーロッパ耐久選手権における勝利は、ヨーロッパにおけるマーケットの人気獲得に直結していたのだ。

ユベール・リガル(76年 ボルドール24時間)
ユベール・リガル(76年 ボルドール24時間)

アレックス・ジョージ(76年 ボルドール24時間)
アレックス・ジョージ(76年 ボルドール24時間)

 このころHondaは四輪車の開発を主軸にしていたこともあり、69年に一大センセーションを巻き起こしたCB750FOUR以来、新たな大型スポーツモデルを発売していなかった。ヨーロッパのモーターサイクルファンは、旧態依然としたOHC4気筒のCB750FOURよりもDOHC4気筒のカワサキZ1を好んだ。またHondaも、ヨーロッパ耐久選手権にフランスやイギリスなどの現地法人チームやジャポートといった有力ディーラーチームが参戦していたが、その面前には74~75年ボルドール24時間の覇者で“耐久レースの王者”とうたわれたフランスのシデム・カワサキが立ちはだかっていた。

 こうしたことから、ヨーロッパにおけるHondaのブランド力は低下。現地の営業担当は悲鳴を上げていた。マーケットの失地回復を目的に、「人気のある耐久レースに参戦し、そして勝ってほしい」。そんな強い要望が、本社に寄せられた。