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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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そして、『社是』が生まれた。
『わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉価な製品を生産する』 / 1956

そして、『社是』が生まれた。 『わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉価な製品を生産する』 / 1956

それは、1956年1月発行のホンダ社報23号に掲載された。『社是』に並んで、『我が社の運営方針』が掲載されている。いずれも、現在の社是と運営方針の『原典』である。

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1956年1月に発行されたホンダ社報No.23に掲載された『社是』

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1956年1月に発行されたホンダ社報No.23に掲載された『運営方針』

この第一印象を、OBたちは次のように語る。

「立派な社是をつくりやがったなぁ、ですよ。その時の正直な感想は。しかし、これが社内に掲示されたかどうかは、記憶にない。多分、してなかったでしょうね。私が入社したころを振り返ればHondaもずいぶん大きくなってはいた。けれど、この意味の言葉はずっと本田さんの口から聞かされてたわけです。『狭い日本を見てちゃいかん、世界を見ろ』とか『商品は、お客さんが喜んでなんぼなんだ』とか。それがキチンとして、ちょっと、こそばゆかったんですね。そう言ってる割には、想いがいき過ぎて、良品・廉価にならないのが多かったし」
と、川島喜八郎。

「これは、おやじさんそのものの社是。運営方針も同じですよ。ただ、お客さんのために明日の商品をつくればいいが、あさっての商品をつくっちゃうところが、ちょっと社是の通りじゃなかった。その後の(株)本田技術研究所時代も含めて、おやじさん25年の打率は低かった。ホームランか3振か(笑い)。川島さんたちから『ひどいよ、これじゃ売れんぜよ。お客さん、まだそこまでいってないよ』と。でも、その片棒かついでたのが僕なんだから(笑い)。けれど、考えの基本は、しっかりおやじさんが植えてくれた。だから僕の時代には、もう少しうまく明日の商品でいこうと、そこで学んだわけです。でも、あの果敢な失敗を経験してなかったら、そして今日の商品だけつくっていたら、ちっぽけなHondaは消えていただろうと思う。もし、おやじさんが日本一が目標で、日本的視野に立っていたら、間違いなく現在のHondaはなかったでしょうね」
と、河島喜好。

「当時は若気のいたりで、生意気に言葉尻をとらえては文句を付けたりしたが、よく読んでみると、何とも率直、素朴で、具体的で、しかも、額に入れて応接間に掲げておくような社是じゃない。とりわけ『世界的視野』のくだりは、当時のHondaのポジショニングにしてみれば、まさに、"よく言うよ!"と言われるレベルだったと思うけど、トップの人たちが本気でそう思い、実現しようと本気で行動してる。そういうのを見たり、聞いたりすると、僕らのような若い連中は、ついしびれて、ついて行ってしまうんだ。おやじさんは、自分の想いを、腹の底から一生懸命言う。そうされるとこっちはガキだから、わりとすんなり共鳴しちゃった。河島さん、川島さん、西田さん、白井さん、若くてああいう思想に乗れた人たちが、おやじや藤澤さんと一緒に頑張って、Hondaの根っこができたんだ。カルチャーの根っこがね」
と、杉浦英男。

「僕なんか、ボロ工場の中の新鋭機械を見て、こういう会社に入りたいって途中入社した口だから、分かりやすいなあと思った。だけどあんな立派な社是は他にないって、引退した今になって再感動してる。あの年代に、あの社是をつくったのは、大変な見識です。ヨソの大会社にも、あんなのはなかったと思うよ。それに『3つの喜び』みたいな、さらに分かりやすい人間っぽい言葉がある。よく、『和』の一文字を社是で飾ってる会社があるが、和だけで会社が繁栄するかって(笑い)」
と、新村公男。

これが、当時の従業員の『社是』への感懐である。人それぞれニュアンスこそ違うが、本田の日常が社是に姿を変えたのだという点は、だれもに共通している。