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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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『3つの喜び』から『良品に国境なし』まで、
Honda哲学を具現化したクルマ、スーパーカブ C100、ついに登場 / 1956

『3つの喜び』から『良品に国境なし』まで、 Honda哲学を具現化したクルマ、スーパーカブ C100、ついに登場 / 1956

スーパーカブの成功の陰には、17インチタイヤの採用がある。当時このサイズのタイヤは全く生産されていなかった。なのになぜ17インチを選んだのか。操縦安定性、荒れた路面の走破性、乗りやすい車高、停めた時の足つき性など、すべての条件を検討した結果、これが最適との結論が出たのだ。採用は本田の一声で決まった。

「タイヤメーカーさんは、最初はウンと言ってくれなかったです。Hondaのたった1機種用に、17インチタイヤをつくるんですから。リムメーカーさんも同じです。結果的には、スーパーカブのあの売れ行きで、たっぷりお返しができたんですけれどね」(原田)。

続いて4月、車体のデザインが始まった。スーパーカブの担当デザイナーは、大学卒業前年、Hondaの白子工場を見学して、その活気に感激して入社した、新人デザイナーの木村讓三郎である。

「だって、まるでビーカーの中でイオン反応してるみたいに、みんなカッカカッカして働いてる。こんな中に、おれも飛び込みたい、と。それで試験受けて、受かったから、もう大学は休んで、1956年の11月からHonda勤め。ちょうど極秘のマルM作戦というのが始まっていました。スーパーカブの開発ですよ。しばらくは見習い期間で、ベンリイのウインカーなんかのデザインをやってたら、突然、『おまえ、マルMのデザインやれ』です。会社が全力で開発してるクルマを、出来立てホヤホヤのデザイナーにやらせるんだから、全く常識外れの会社ですよね。あの時、おやじさんが言ってた印象的な口癖が、『手のうちに入るものにしろ!』なんです。どういう意味か最初は分からなかった。そのうち、オートバイをもっと身近にあって、だれもが気軽に使えるものにしたいんだということだな、と分かってきた。要するに、パーソナルツール化、普遍化です。手のうちで扱える道具のようにしろということですね」。

木村は、本田のイメージをくみ取って、デザインに打ち込んだ。ところが、相手は"造形係長"である。クレイモデルに、遠慮会釈なく手を出し、削りまくるのである。特に、デザイナーたちがステップスルーと呼んでいた、またぐための空間デザイン処理に厳しく注文を付けた。ヨーロッパのモペッドでは燃料タンクをまたぐスペースの前部に置くのが標準的だったが、本田は、それを良しとしなかった。本田は、

「これは、後ろに足を上げてまたぐオートバイじゃないぞ。前からまたぐクルマだ。スカートはいたお客さんにも買ってもらうクルマだ。邪魔なところに置くな」

と、シートの下にタンクを置くレイアウトを、木村に考えさせた。ステップスルー空間は、クレイの芯にしている鉄板が出るまで本田が削り込み、それでもまだ満足せず、やり直しを命じられた。
またぎやすさは、スーパーカブのデザインの大きな特長になったが、発想のもともとは、本田の『製品は、あくまでも親切であれ』にあったのだ。

デザイン作業は、8カ月後の12月末に、ようやく最終モックアップにたどり着いた。

「これはオートバイでもない。スクーターでもない」
と、本田が言った通り、今までにない、新しい形の2輪車になっており、モックアップは、まるで実車のように仕上げられていた。

「おやじさんが、『専務を呼べ』って、八重洲の本社に電話をさせた。すると、どうやってこんなに早く来られたんだろう、と思うくらい早く、藤澤さんが現れましたね。私も、その場に居合わせました」
と語るのは、木村の頑張りをよく知る、やはり1957年に入社した、もう1人の若いデザイナー・森泰助である。

本田はおよそ15分ほど、藤澤にこのクルマの今までにない特長を、まくし立てるように語った。

「この後のシーンは、あの有名なエピソード通りです。おやじさんが『どうだい、専務。これなら、どれくらい売れる?』と言われた。そしたら、藤澤さんが『まあ、3万台だな』と答えられた。私が思わず、口をはさんじゃったんです。年間3万台ですか?って。そしたら、『バカ言え。月に3万台だよ!』。さしものおやじさんが、一瞬、目をむいたのをよく覚えています」(森)。

原田は、その現場にいなかった。

「私は、わざと藤澤さんを避けてたんです。もし、藤澤さんに何か注文出されたら、聞かなきゃならなくなるし、おやじさんとの間にはさまって、のっぴきならなくなる。月に3万台の話は、藤澤さんが帰った直後に聞いた。さあ、これはこれで、やっぱり大変なことです。日本中のオートバイメーカーの合計販売台数が、月に4万台程度の時ですからね。藤澤さんも、あの時には、確固たる自信があって、あの数字を言われたんじゃないでしょう。営業はそれくらい売る覚悟だからしっかりつくれと、プレッシャーをかけた感じでした」(原田)。

このプロジェクトが始まる前、売る人・藤澤は、本田に、こんな注文をしていた。

「藤澤さんは『横に寝てるやつが、買ってもいいわよ、と言うクルマにしてくれ、と社長に頼んだよ』と私に言われましたね。奥さんがだんなさんにOKを出すような、ということ。オートバイは、当時やっぱり、女性にとって怖いイメージのある乗りものでした。エンジンがむき出しで音も大きくて荒々しい。今までのオートバイではマーケットに限界があることを、藤澤さんは知っていた。あの人自身が、オートバイにも自動車にも個人的には興味がない。免許証は一応持ってたが、靴ベラ代わりにしてた(笑い)。ですから、オートバイという商品を、乗らない側からも客観視できる。『今度のクルマは、臓物の見えないクルマになるぞ』とも言われてましたね。女性も乗れるクルマになる、と。まだ、姿もないころの話ですが」
と、川島は言う。

「藤澤さんのすごいところは、スーパーカブの開発の時に、市場にふさわしい商品価格を、本田さんに前もって提示していたところです。本田さんは、それに応じて開発指示をする。だが、技術屋の良心で、妥協できないところはどんどん直すから、コストが上がります。ところが藤澤さんは、この商品のマーケットではこの価格であるべし、とコストを無視した価格を付けた。びっくりしましたね。5万5000円ですから。月に1000台単位しか売れなければ、コスト割れもいいところです。しかし、3万台売れば、コストが合う。これにぜひとも合わせてもらいましょう、とリテイルプライス(小売価格)を設定してしまった。よし、それならやって見せよう、と頑張る本田さんもすごい。この価格で、市場でトップの性能と耐久性のある精度の高いクルマを、工場や部品メーカーさんを指導して、つくってしまったんですから。うちの工場もそうですが、オートバイ部品に始まって、今では自動車部品の大きな会社になった協力メーカーさんがたくさんありますね。これを育てた本田さんは、つくる世界の第一人者。藤澤は、売りの世界の大貢献者。2人は、日本の自動車業界の恩人だと思います」(川島)。

スーパーカブは、フロントフェンダーをはじめとして、ポリエチレンを大幅に採用した初のHonda製品である。

「ポリエチレンを使うのは冒険でした。商品としてはポリバケツなんかで人気が出てきたばかりの新素材。自動車業界では使った前例は全くありません。おやじさんの『やれ!』の決断で採用したんです。あれらの部品を重い鉄板ではなく、軽いポリエチレンにしたから、スーパーカブの走りの性能は、ひときわ上がった。コストダウンにも、結局、大きく役立ったのです」(原田)。

もし常識通り、鉄板であの部品をつくっていたら、スーパーカブが、これほど成功したかどうか分からないと原田は言う。

ジュノオの失敗以来、プラスチックの研究の火を絶やさなかった土田のセクションは、ここから化成課化成係として活躍を開始した。チャンスに恵まれない彼らに、本田は折にふれて励ましの声を掛け、元気づけてきたのだ。初期こそ積水化学に依頼したポリエチレン部品の生産は、短期間のうちにスーパーカブのツールボックス、バッテリーボックス、フロントフェンダーを手初めに、射出成型による社内生産体制を敷くことができた。これは、ジュノオの生産が終わり、チームの一時解散後も、わずか4、5人のメンバーで続けてきた技術開発があったからだ。土田らの仕事は、やがて、鈴鹿製作所でのプラスチック部品の大量生産へと発展していき、スーパーカブのコストダウンに貢献することになるのである。

ネーミングは、簡単に決まった。提案者は、木村だった。

「名前だけがまだ決まっていなかった。当時、スーパーという言葉が流行ってたから、それをあのFカブの指定書体の前に付けてロゴをつくって、おやじさんに見せたら、『うん、それでいいや』って、スーパーカブ。特別なエピソードなし。1発で決まったのはネーミングだけだったな」(木村)。

開発着手から約1年8カ月という、Hondaとしては異例に長い開発期間をかけて、1958年8月、スーパーカブが発売された。

スーパーカブは、本田が、100%お客さまの立場になり切ってつくったクルマだといわれる。エンジンから、形から、乗りやすさ、使いやすさ、耐久性、経済性、すべてが、『お客さまの満足第一』だった。本田はテスト走行の時、自らぬかるんだ道路を走って、泥はねのかかり具合までチェックした。こうして完成したスーパーカブは、『Honda哲学が、そのままクルマになった』ような2輪車だった。