MENU

HONDA

検索

語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

  1. 語り継ぎたいことトップ>
  2. 限りない夢、あふれる情熱>
  3. 『3つの喜び』から『良品に国境なし』まで / 1956

『3つの喜び』から『良品に国境なし』まで、
Honda哲学を具現化したクルマ、スーパーカブ C100、ついに登場 / 1956

『3つの喜び』から『良品に国境なし』まで、 Honda哲学を具現化したクルマ、スーパーカブ C100、ついに登場 / 1956

1956年、本田と藤澤はそろってヨーロッパへ旅立った。表面の目的は視察旅行だったが、2人の胸中には全く新しい商品の構想があり、それを確かめるための旅であった。

カブF型の生産は終わっていた。自転車用補助エンジンに替わって、モペット【注】と呼ばれるクルマが、日本でも姿を現し始めていた。

Photo

スーパーカブ発売当初のパンフレット。Superの文字もカブF型のロゴに合わせてつくられたのがよく分かる。手づくりに近いものだったと当時の関係者は言う〔資料提供 木村讓三郎氏〕

ヨーロッパの街を走り回っているモペッドを見るたびに、本田は藤澤に、
「あんなのか?こんなのか?」
と尋ねるが、藤澤は首を横に振った。

帰国するやいなや役員会が開かれ、新製品の開発指示が2人から告げられたのである。設計スタッフには、本田がイメージしたクルマの説明がなされた。

「主だった連中に集合がかかって、おやじさんが頭の中の構想を話された。とにかくモペッドに近いが、それとは違うものにする、というのは伝わってきた。サンプルのクルマも5台くらい買ってきてましたよ。ドイツのNSUとか、ツュンダップとか、オーストリアのプフとかがあって、おやじさんは、いつでも量産性を考えてる人ですが、今度はいつにも増して大量生産を考えているなと、僕らも分かっていました。実はおやじさんは、ヨーロッパへ行かれる前に、試作車を2台つくらせてるんです。その1台は、ボデイー全部がアルミ鋳造というとんでもないもので、量産性はともあれ、重くてどうにもなりそうもない。早々にあきらめましたがね。このころまでは、おやじさん自身、これ、というイメージが、固まってなかったんです」

当時の車体設計課長で、この計画のプロジェクトリーダー格だった原田義郎は、発端を語る。

「そのうち、だんだん、具体的になってきたんですね。設計室に朝一番で現れて、『おい、昨日の晩、こういうふうに考えたんだ』と、大きな声でしゃべり出す。何事が起きたかと設計室の連中が集まって来る。人が寄って来ると、本人も興奮してきて、口から泡を飛ばして説明する。そのうち、じれったくなって、床に座り込んでチョークで構想を描く。描いてるうちに、考えが先に進んで、描いたのを手で消して、また描く。見物人はますます増えてくる。輪の中のおやじさんは、まるで大道芸人ってとこだったなぁ(笑い)。でも、周りを取り囲んだ従業員たちは、みんなピリピリと緊張して、おやじさんの言葉を聞いていました。『エンジンは4ストローク!』と、これは、とっくに決めてました。藤澤さんの注文じゃありません。あのころは大の2ストローク嫌いになってて、もう目の敵。1957年の正月、まず、エンジンの開発からスタートしました」。

エンジンを担当したのは、星野代司である。役員会の席で本田は、新エンジンの開発は星野に担当させる、と指名していたのだ。

「私は、1951年にHondaに入って、すぐカブF型のエンジンをやらされました。Hondaの前の仕事もエンジン設計でしたが、内燃機関じゃなくて、外燃機関。蒸気機関車の設計をやってたんです。それが50ccのちっちゃなエンジンをやることになった(笑い)。経験がなくても技術的にそう難しくない2ストロークですから、何とかなりましたが」。

しかし、今度のエンジン開発には、苦労が待ち構えていた。

「スーパーカブのエンジンは、ベンリイJ型の次で、私が設計した4ストロークの2作目でした。50ccの4ストロークエンジンなんて、世界でどこも量産なんかしてない。50ccなら2ストロークと決まっていましたからね。本田さんは、藤澤さんとヨーロッパへ行かれた時、ホテルで朝、新聞配達のクルマがみんな2ストロークなので、『カン高い音がうるさいのなんの。あんなのは、やっぱり世の中に出すべきじゃないんだ、ああいうクルマこそ、4ストロークでなきゃいかん』と、おっしゃってたそうです。私への命令はもちろん4ストローク。それからは、もう毎日毎日、設計室においでになる。こっちが夢中で基礎計算をやっていた時、ふっと振り向くと、いつの間にか後ろに本田さんが立っておられて、肩越しにじっとのぞき込んでたなんてことも再々ありました。熱の入れようたるや、いつもよりもはるかに激しかった。設計図を引き始めると、もっと大変。何しろ図面を見るのが恐ろしく速い人です。パッと見て『これじゃぁ駄目だ』って、せっかくきれいに描いた上に鉛筆でシャーッと乱暴な線を描いちゃう。勘が鋭くて、問題点を一目で見抜いてしまう。やはり、普通の頭の人ではなかったです」。

だが本田は、自分の意見をゴリ押しするような一方的なワンマンではなかった、と星野は言う。

「例えば、『この板厚、もっと薄くしろ』と言われた時に、これは強度計算上、この厚みです、と理論的に説明すると、何もおっしゃいません。『お、そうか』。それでおしまい。こっちの勝ちです。社長のアイデアとこっちのアイデアがぶつかった時も、テストしてみて、『おれのはダメかあ』と、あっさり引っ込める。ただ、エンジニアとしての本道から外れると、これは厳しい。私は、それで一度、特に厳しいお叱りを受けました。ベンリイのカムシャフトへの給油テストで、テストの基本を間違えたときでした」。

ともあれ、毎日、矢の催促のうちに開発は進んだ。

「大きな問題の一つは、このエンジンが水平近くまで前に傾けて搭載されることでした。どうしても風の当たる面積が少なくなって、冷えにくい。オーバーヒートしてしまう。で、シリンダーヘッドカバーのてっぺんに、通風用の穴を開けるアイデアを思い付いた。あれで、うまく冷えるようになりましたね。本田さんは、かねがね、『創意工夫は、苦しまぎれの知恵である』とおっしゃってましたが、その通りです。
もう一つ、似たような話があります。思うようにパワーが出なくて悩んでいた時です。これはもう、吸・排気バルブを大きくするしかない。しかし50ccエンジンですから、シリンダーヘッドの面積は小さい。定番の12mm径サイズの点火プラグを使ったのでは、バルブ径を大きくできない。思いきって10mm径のプラグの採用に踏み切りました。本田さん流に言えば、『常識は破るためにある』ということですね。プラグメーカーのNGKさんが積極的に10mmプラグを開発してくれたんです。パワーは、4.3馬力出せましたから、よそさんの倍ぐらいになりました」(星野)。

エンジンを4ストロークにしたこと。これが、スーパーカブの今に続く未来を決める鍵となった最も大きな選択だった。

OHVでOHCにも勝る9500回転という高回転・高出力型でありながら、実用車として使いやすい特性を持っていた。燃費の良さは、これまた2ストローク勢を大きく引き離していた。

【注】モペット…和製英語、ヨーロッパのペダル付きバイク、モペッドからきたもの