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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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『120%の良品を目指せ!』。
お客さま第一主義の意味深い言葉 / 1953

『120%の良品を目指せ!』。 お客さま第一主義の意味深い言葉 / 1953

1953年1月、Hondaは本社と営業部を東京都中央区槙町2丁目5番地に移す。現在、Honda八重洲ビルのある場所である。同じ1月、埼玉県大和町に3万坪の用地を買い、大和工場(現、埼玉製作所和光工場)の建設も始まった。4月には、白子工場が完全に出来上がり、フル稼働に入った。支店網も、名古屋、四国、大阪、九州と拡がっていった。
ドリーム、カブの売れ行きも、ますます好調だった。

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初代ベンリイのポスター。4ストロークエンジンとプレスバックボーンの新フレームで登場したベンリイは、スタート時こそつまずいたものの、やがて確固たる人気を獲得していく〔資料提供 Hondaコレクションホール〕

『120%の良品』と題する文章が掲載されたのは、ホンダ月報の1953年3月号である。いかにも本田らしい表現である。

「100%を目指したんじゃあ、人間のすることだから、1%やそこいらのミスをする。その1%を買ったお客さんには、Hondaは、100%の不良品をお売りしたことになってしまう。だからミスをなくすために120%を目指さなければならないんだ」。

当時の従業員たちは、本田から、これをもっとナマの言葉で実地教育されていた。

「あの人のすごさは、どんな時だろうと、お客さん第一なところ。いつもお客さんの立場からモノを見るどころか、お客さんそのものになってしまう。『120%を目指せ』は、口癖でしたね。何かというと、おれはな、駄目な1%に当たったお客さんになりかわって怒ってるんだぞ、ってやられたものです」。
と、河島は言う。

「私は、Hondaの幹部社員募集広告の"技研"という文字にひかれて応募した1人で、1951年の1月に東京工場の設計課に入った。でも、専門が電気だったので、やる仕事がない。すると、たちまち組立に回された。東京工場の小さな組立ラインが動き出したばかりで、回りの連中もみんな素人。浜松からベテランが来て、一通り指導して帰ってしまった。慣れてないから、ビスをしっかり締めなかったり、忘れたりする。おやじさんが現れた時に、それを見つかっちゃった。私じゃなくて隣にいた人が。もう食いつきそうな目で、まず、『この馬鹿っつら!阿呆っつら!馬っつら!』ときた。それから『お前、給料どこからもらってる?』『会社からです』。『会社はどこから金もらってる?』『買ってくれた人です』。『結局はお客さんからもらってるってことだ。なのに、こんないい加減な仕事しやがって、お前、そのお客さんを殺す気か!』と。ゾクッとしたな。恐ろしかったけど、おやじさんのヒューマニズムが、口先じゃなく、体中から出てるのを感じました。『人間尊重』は、今もHondaの基本理念になっているけれど、そのベースは、おやじさんのヒューマニズムです。人間尊重なんていう言葉は、おやじさんの口から聞いたことはないが、人への心づかいの気持ちを、こういう激しい表現でわれわれにぶつけてきたことは何度もあります。しかも、そういうふうに強烈な雷を落とす相手をちゃんと選んでいるんです。こいつならという見込みのある、怒鳴りがいのあるやつをね。もっともご本人は、『人はよく、かわいいからこそ怒るなんて言うが、おれはそうじゃない。その時はほんとに憎たらしくなる。なぜなら、おれたちのつくる商品は人命にかかわるものなんだ。それをないがしろにする人間は絶対に許せない』って。だから迫力満点で、怒られたほうは冷や汗びっしょり。もう2度と間違いはすまいと肝に銘じる。ところが翌日になると、おやじさんはケロッとして怒ったことなんか忘れたような顔をしている。だから、あれは教育的落雷だったんだと、後になって分かるわけです」
と、中野保(元・取締役)は語る。

杉浦英男(元、会長)も、やはり若い日に、120%の良品にかかわる問題で本田から強烈な教訓を受けている。