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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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『姿の良い製品は内容も充実している』。
独創のHondaは、独自の美しさ / 1957

『姿の良い製品は内容も充実している』。 独創のHondaは、独自の美しさ / 1957

当時、神社仏閣スタイルと呼ばれた、ユニークな角型の車体デザインは本田が先頭に立って、自ら粘土を削った。

輸出を狙うからには、Hondaのマークはイコール日本のマークの誇りを持って、独特のデザインを打ち出さなけりゃ駄目なんだと考えた本田は、休暇を取り、奈良や京都を10日間ほど巡った。
この旅に同行したのは、さち夫人だけである。

「何をしに行くのか、いつものことで説明なし。毎日毎日お寺回り。ある日、京都大原の三千院で、ある仏様の前で動かなくなっちゃった。拝観時間が過ぎても。あんまり夢中なものだから、お坊さんが懐中電灯を持って来て、見せてくださった。なんであんなに見てたんですか、と聞くと『お前には関係ないっ』の一言。あとで何のためだったか分かりましたけどね」。

「ドリームC70のタンク側面のエッジは、仏像の眉から鼻にかけての線を頭に描きながらデザインした」
と、本田は言っている。

後に技術研究所の造形室のスタッフに、"造形係長"のニックネームを付けられるほど、本田はデザイン好きであった。姿は心の鏡、姿は中身の良さを現す、と。

エンジンの外観まで統一されたC70の角型デザインは、多くのコピー車が生まれるほど、市場で人気を集めた。特に、精密感あふれるエンジンのデザインは、後年、あるイタリア車にまでコピーされている。アルミダイキャスト鋳造の粋のようなC70系のエンジンは、今見ても魅力的である。

量産・精密・軽量のアルミダイキャストへの本田のこだわりは、いよいよ、この時期から完全に開花する。ちなみに、スーパーカブの大量生産に入った時、日本で生産されるアルミニウムの消費量の内、自動車関係業界では、Hondaがトップを占めるのである。

C70以後、Hondaは、だれかにまねをされることはあっても、だれのまねもしない、独自・独創の時代に入った。この後に続くC71には、ジュノオで経験したセルスターターが付いた。今はあって当然のセルスターターも、最初はHondaから始まったのだ。

この年6月、Hondaの設計部門は、白子工場内で技術研究所として発足した。これは研究所独立の前奏曲だった。さらに、3年後の1960年には、Hondaから分離・独立し、(株)本田技術研究所が設立されることになる。メーカーの研究所部門を別会社にする例は、当時どこにもなかった。

神武景気が終わり、ナベ底景気といわれる不況の中にあっても、Hondaの業績は上昇し続けていた。
輸入機械は猛烈な勢いで働かされていた。"やって見もせんで"と"能率"は、工場現場での本田の2大口癖だった。

磯部は、本田の無数の現場語録を、哲学的なものから具体的実務の助言まで、克明に記録している。その一つが、
『設備の能力は最高スピードで決めろ』
である。

輸入機械は、メーカー指定の作業速度を超えるスピードで使われた。エンジンでいうなら、レッドゾーンまで回されるのである。当然、故障したり、オーバーヒートも起きた。指定を無視しての酷使だから、その対処はHondaでしなければならない。買った機械は自分のものだ、知恵を使って自分の機械にしろ、である。機械メーカーが驚くような工夫をして、フル稼働させた。例えば、オーバーヒートにはラジエーターを付けて対策する。単機能の機械を複能機に改良する。この経験が、工作機械の自製という方向へ発展し、やがて1962年の工機製作所の発足へ至るのだ。

1957年12月、Hondaは、東京証券取引所に上場された。翌年3月には大阪、4月には名古屋でも上場される。
2輪車の生産台数では国内第1位となった。